雨と手拭と虫歯と神様

私の名前は岩倉紅葉。とても貧乏な家に長女として生まれ、兄弟はひとつ下から十三も離れたところまで男ばかりが計六人。
体が弱い父と駆け落ち同然で結婚したいいとこのお嬢様育ちの母は金銭感覚が完全に狂っており、2人共優しいんだけど、正直食うにも困る毎日を過ごしていた。
腹が減ったと泣き喚く弟たちをよそにのほほんと笑う母は綺麗だったからとこれまた高そうな反物を購入しては私が返品しにいく毎日。物心ついた頃からそんな生活を続けていた私はいるかいないのかわからない神様なんかに縋ったところで金も増えなければ腹も膨れないと可愛げもなくすくすくと成長し、年齢を偽ってはばれるまであちこちで働くという過酷でとても充実した日々を送っていた。

そんなある日、仕事の帰りに溜息を吐きながら歩いていた私はふと空を見上げる。
今日はやけにバタバタした勤めの食堂。配膳直後に盆をひっくり返されたのは初めてだったなと記憶に新しいドジなお客を思い出して見上げた空は朝と違いどんよりとしていた。
こりゃ一雨くるかなと早足になったところで、ぽつり、水滴が鼻を打つ。
途端にバケツをひっくり返したように土砂降りになった雨に飛び上がり、定休日らしい店の軒下に飛び込む。
濡れてしまった髪と肩を新調したばかりの手拭で拭いていたところ、私と同じように急な豪雨の被害に遭った人々が慌しく色々な店先に飛び込む中、私と同じ軒下に飛び込んできた、若い男がひとり。

「あ、すみません…」

一体何が『すみません』なのかはよくわからなかったけど、そう言って笑う彼の笑顔はとても凛々しく素敵だった……けれど、前歯から左に数えて三本目に虫歯があった。
若干笑いが込み上げてしまったものの、少し癖のある色素の薄い髪を濡らした彼の横顔のラインときりりとしたアーモンド形の瞳にいつの間にか見蕩れてしまい、気付いたら買ったばかりの手拭を彼に差し出していた。
よほど急いでいたのかまだ酷い雨の中に一言のお礼だけを残して飛び出していった彼。手拭は貸すだけであげるなんて一言も言ってないのに持ち去ってしまった彼。遠ざかっていく背中をいつまでも未練がましく見つめていた私は、ここぞとばかりに都合よく、神様とやらに願った。
勿論、神様なんて居ないと信じていたけれど。




ところが偶然と言うのは実に恐ろしいもので、それから半年ほど経った正月の初詣の混雑の列で、母がこればっかりは譲れないと珍しく食い下がって私に無理矢理着せた綺麗な綺麗な晴れ着の裾を踏んづけられた。
文句ついでにクリーニング代と称して莫大な賠償金でもふっかけてやろうかと邪な考えを催した私の目に映ったのは、少し癖のある色素の薄い髪。

「あ、これはまたすみません…」

どこかで聞いた覚えのある言葉を口にしてぺこりと頭を下げた彼が浮かべた凛々しい笑顔。そこには素敵な虫歯がキラリ。
あまりにも信じられない偶然に、これは夢かと思ってほっぺたを強かに抓ってみたら、涙が出るほど痛かった。

夢見心地で家に帰り、浮かれた私を不思議に思った父と母と弟たちがこぞって理由を聞いてきたので、意を決して話をしたら『そんな馬鹿げた話は今まで聞いたことがない』と死ぬほどに笑い転げられた。
私もそう思うが、事実そうなのだからとムッとする。
しかしそれから数日後。化粧っ気など皆無だった私がなけなしの生活費を何とかやりくりしてひり出した金で生まれて初めて紅なんてものを買ったもんだから、父は酷く心配そうな顔をして大丈夫かとおでこに手を当ててきた。失礼な。




そんな私をしばらくは生暖かく見守ってくれた家族たちが、とうとう痺れを切らしたのか、それとも本当に私の精神を危ぶんだのか、まあそこは定かではないが『本当ならばその青年を連れてきなさい』と微妙に引き攣った笑顔で言うものだから、リクエストにお答えして彼を自宅に招いた。

「善法寺伊作と申します」

丁寧にぺこりと頭を下げる凛々しい彼を自信満々に紹介したら、馬鹿みたいに揃ってぽかりと口を開ける父と母と弟たち。
どうだ素敵な人だろうと家族を見たら家族たちの視線は何故か彼の膝下に一点集中。なんだと思って視線をやれば、一体何に引っ掛けたのかそこにはほつれた大きな穴。
慌てて隠したけど、しっかり見られて笑われた。

でも父も母も、笑顔が爽やかでとっても素敵だと笑ってくれた。
それに気を良くしたのか、それとも気でも触れたのか、全然意味がわからないけれど突然がばりと頭を下げて彼は一言こう言った。

「紅葉さんを、お嫁さんにください」





その後私は気を失っていたらしい。気付けば見慣れた布団の中。ああ全て夢だったのかなと体を起こしてみれば、私に気付いた伊作さんは相変わらずの凛々しい笑顔で気が付いたかいと声を掛けてくれた。
夢と現実の区別がうまく出来なくてぽかんとしていた私の目の前で、嬉しそうな父と母が伊作さんとしている話にはどう聞いても“結婚”と言う言葉が混ざっていて。
気を抜いたらぽろりと目玉が落ちそうな私の肩をぽんと叩いたふたつ下の弟が、昔一度だけ菓子を買い与えた時と似たとても嬉しそうな顔で『おめでとう』なんて言うもんだから、私はもう一度気を失った。

ああ神様、今まで信じてなくてごめんなさい。
あなたが与えてくれるのはお金でも食べ物でもなく、幸せだったんですね。


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