自責(失恋 side B)

その少女とは、性別もクラスも学年すら違ったが、とてもウマがあった。

「好きです。1年生の頃からずっと」

そんな仲の良い彼女から向けられる感情が、いつしか友愛から恋愛に変わっていったことに、本当はずっと前から気付いていた。

「……申し訳ない。紅葉の気持ちには、答えられん…」

気付いていた、のに。

「……想い人が、いるんだ…」

私の心の中には、もう既に別の女が、住み着いていた。

「……そう、ですか…」

まるで表情の伺えない瞳で彼女は、紅葉は短くそう呟いた。
私は小さくすまん、と謝り、その場からさっさと退散するしかできなかった。

「……私など、お前には勿体ないよ」

沈みゆく夕日を背に小さく笑ってそう言ってみたものの、自分がとても卑怯な奴に思えた。




普段通り、賑やかしい友人たちと夕食を終え、一日の汗を流すために風呂に入り、じゃあまた明日なと各々部屋に戻って就寝の準備を始めた頃。
誠に勝手だとは思うが、何かが喉に痞えた感覚がどうしてもなくならないので、同室の暑苦しい男が夜間鍛錬に出掛けたのを見計らって、そろりと自室から抜け出した。

「…罪悪感、なんだろうか」

自嘲気味にそう笑ってみるも、心の中のもやもやは消えはしない。
今日はもう眠ることを諦めて、同室のように隈でもこさえてみようか…そんな考えが浮かんだところで、廊下を歩く足音が自分に近付いてきていることに気が付いた。
こんな微妙な時間に先生の見回りだろうか、と怪訝に思っていると、廊下の曲がり角からひょこりと顔を覗かせたのは、食堂のおばちゃんだった。
一瞬だけ驚いた顔をしたが、次の瞬間にはおばちゃんは眉を下げて困ったように笑い、そして、黙って私の手を引いた。
されるがままに歩いて行くと、辿り着いたのは真っ暗な食堂。

「ちょっと暗いから、足元気を付けて…って、立花くんはもう6年生だからこれくらい慣れっこかしらね?」

そう言って、小さな明かりだけを灯し、おばちゃんは慣れた手つきで二つの湯飲みを戸棚から取り出した。
こぽぽ、と湯気を立てて、ゆっくりとお茶が注がれていくのを、私はじっと見つめていた。

「立花くん、紅葉ちゃんと、何かあったでしょ?」

「……何故、それを?」

どこか遠慮がちにそう問い掛けられた言葉に、驚いて、でも抑揚のない声で答えると、おばちゃんはうふふと口角だけを上げて微笑んだ。

「わかるわよ。もう何年、この学園で食堂のおばちゃんやってると思ってるの?」

冗談めかしたその言い方に、微かに口角を上げる。
しかしどうしても引き攣ってしまう顔に、私は今日何度目かの溜息を吐いた。

「…好きだと、言われました」

「あらあら、青春ねぇ」

ころころと笑ったおばちゃんを見て、もう一度笑ってみようと口角を上げたが、ひくひくと不自然に引き攣ってしまい、喉の奥が焼けるように熱くなった。
十五にもなるのに、泣くなんて恥ずかしい。
そう思ったが、意志とは裏腹にほろりと一粒、我慢できなくなった痛みが溢れて零れる。

「異性というものは、本当に面倒ですね…」

掌で目元を覆い、それだけ呟く。
なるべく涙声にならないようにと嗚咽を堪えることだけを考えていたはずなのに、気付けば私は自分の中に渦巻く汚い思いをぽつりぽつりと吐き出していた。

「子供の頃は男だとか女だとかそんなの全然関係なくて、バカみたいにはしゃいで、毎日楽しくて、でも、気が付けば私と彼女はどんどん違ってきて…体格も、思考も、感情さえも…」

どうして、私などに恋焦がれたのか。
どうして、私は彼女ではない女に恋焦がれたのか。
ほんの少しだけずれた歯車は、すべてを大きく狂わせた。

「もう、あの頃のようには戻れないのでしょうね…」

ずっと仲のいい友達でいたかった。男だとか女だとか、そんなこと関係ない、あの居心地のいい日常は、彼女から好きだという言葉を聞いてしまったあの瞬間に崩れ去って消えてしまったのだろう。
彼女が告白などしなければ…いや、自分が、彼女の想いに応えられさえすれば、こんな気持ちにはならなかったのだろうか。

「…遅かれ早かれ、辿る道だったんじゃないかしら?」

仄かな明かりの食堂に、おばちゃんの声が静かに響いた。

「ねえ立花くん。誰だってね、嫌でもいずれは大人になってしまうのよ。そうすればそれぞれに、色々な考えが生まれてくるもんだわ」

おばちゃんは目を伏せてそう言うと、手の中の湯飲みを弄りながら、ふう、と息を吐く。

「紅葉ちゃんが想いを伝えなかったとしても、彼女の中でそれは燻ぶる。その気持ちは、立花くんだってわかるんじゃなあい?」

そう問いかけられて、一瞬脳裏に浮かんだのは、艶やかに微笑む一人の女。

「この湯飲みだって、人だって同じよ。許容量を超えれば、それは外へと溢れだす…いつか、絶対にね。それを拭う人もいれば、そのままにしてしまう人もいる。あの子の想いに応えられなくったってね、それは悪いことじゃないの」

だって、立花くんの想いが立花くんの好きな人に受け取って貰えなくったって、きみはその人を恨んだりなんてできないでしょう?
おばちゃんに優しくそう言われ、心に空いた大きな穴に、ことりと何かがはまるような…そんな感じがして、私の涙はピタリと止まった。

「そりゃあねえ、みんながみんな好きな人と結ばれたら素晴らしいことだと思うわ。でもね、世の中ってのはそんなにうまくはいかないものよ。笑う人もいれば、泣く人もいる。だけど、そういった悲しみや苦しみを乗り越えて、心は強くなるのよ」

「心が、強く…」

「そう。試練っていうのはね、その人の限界ぎりぎりを試すものだから、とても辛く感じる。でも、それを乗り越えた時に人はきっと成長するんだと、おばちゃん思うの」

「成長…」

おばちゃんの言葉を、小さく繰り返す。

「だからね、そんなに自分を責めないであげて」

ね?と優しく笑って、私の肩に温かな手が置かれる。
そのぬくもりと、自分が一番欲しかった言葉をくれた食堂のおばちゃん。その温度にしばらく顔を合せていない母を思い出して、その晩、私はほんの少しだけ声を出して泣いた。
そしてその涙を拭った後、時間はかかるかもしれないが、こんな私に想いを寄せてくれた紅葉に、もう一度『友』として歩み寄ってみよう、と心に決めた。


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