殴り愛
「潮江文次郎、覚悟!!」
会計室に向かい廊下を歩いていた俺に、そう言って颯爽と殴りかかってきた女。
もはや日常茶飯事となったその女の拳を、俺はニヤリと笑って躱す。
「懲りん奴だ」
この女は、忍術学園くノ一教室6年生の岩倉紅葉。
4年生も終わりの頃、対戦実習の授業で俺の相手になり、完膚なきまでに叩き潰した。
それからというもの、俺を見つけては殴りかかってくる獣のような女だ。
低く身を屈め、自身の体格を生かした素早さで俺の懐に潜り込もうとする紅葉を跳躍して躱し、着地する勢いのままぶん投げた。
小さく舌打ちをしたアイツは壁を蹴り再度俺の方に向かってきたので、背中に背中を合わせ位置を入れ替え、そのまま後方から拘束してやった。
「残念だったな」
そう言って笑うと、アイツは悔しそうに顔を歪め、何とか俺の腕を振り解こうと暴れる。
しかしいくら頑張ったところで、華奢な女の紅葉が男の俺に力で敵う筈もなく、無駄な抵抗に終わる。
「うぎぎ…!!」
「諦めろ、俺には勝てん」
俺のその一言に一瞬だけ体を強張らせた紅葉は、暴れるのを止め、その代わり何とか身を捩って俺の腕の中で半回転し、お互い顔をつき合わせる体制になった。
その意外な近さにたじろいでしまい、一瞬俺の腕の力が緩む。
その瞬間を見逃さなかった紅葉は、先程の恨みなのか遠慮ない力で、あろうことか俺の肩にがぶりと噛み付いた。
「ッいっ、何てことしやがる!!」
その思いがけない痛みと抵抗に、俺はついカッとなって紅葉を突き飛ばした。
そこからはもう、取っ組み合い。
お互い他人の目すら気にせず、廊下にごろごろと転がりながらの応戦。
通りかかる生徒は一瞬ぎょっとするが、俺たちだとわかると『またか』とでも言いたそうな目を向けてさっさと去っていく。
最初の頃は誰かしらが仲裁に入ったりもしたが、それでも繰り返されるこの取っ組み合いに、いつしか匙を投げた。
…いや、そうでもないな。ただ一人、あの優しい同級生だけは、俺たちの姿を見つけると
「あーーー!!何やってんの二人とも!!」
そう言って、普段の優しい顔を鬼のように歪めて俺たちの仲裁に入り、そのまま保健室へと引き摺っていくんだった。
「もー!!ボロボロじゃないか!!紅葉ちゃんは女の子なのに、顔に痣拵えて!!」
「止めてくれるな善法寺!!」
「止めるよ!!バカじゃないの!?」
「…俺は悪くねぇ」
「悪いよ十分!!女の子相手に本気で手を上げるなって僕ずーーーっと言い続けてるよね!?」
保健室に放り込まれた俺たちの手当てをしながらぶちぶちと小言を言う伊作をよそに、俺は苛立ったまま隣に座る紅葉の顔を憎憎しげに見た。
その顔には、無数の痣。
ちくりと痛んだ胸にますます俺は苛立ち、ケッと吐き捨てる。
「女?俺は獣の躾をしてただけだ」
「誰が獣だ算盤野郎!!」
打ったら響くその罵声の応酬に、伊作は深い深い溜息をついた。
「二人とも、もういい加減にしてよ…」
キーキーと再度取っ組み合いを始めた俺たちを心底呆れた目で見て、伊作は紅葉に何かを投げて、立ち上がった。
「紅葉ちゃん、文次郎の顔のひっかき傷は君がつけたんだから、ちゃんと手当てしてあげてね。それと、もうそろそろ素直になったら?」
その言葉に訝しげに眉を顰めた俺をよそに、伊作から恐らく塗り薬を受け取った紅葉の顔は見る間に真っ赤に染まった。
「ううううるさい不運大魔王の癖に!!」
「へー、そういうこと言うんだ。あのね文次郎、紅葉ちゃんって実「わあああぁぁ!!」」
珍しく意地の悪そうな顔をした伊作が、叫ぶ紅葉の口を押さえつけて続けた言葉に、俺は頭の中が真っ白になった。
「実は文次郎のことが大好きでね。本当は殴り合いがしたいんじゃなくて、君に抱き締めて欲しいらしいよ?」
「ふぐむぐもがが!!んー!!んむー!!」
苦しいのとは明らかに違う紅葉の慌てふためきもがく姿に、俺の顔が熱くなる。
まさか、まさか。そんなバカな。
「あんまり意地悪しても可哀想だし、僕は落とし紙の補充に行ってくるよ」
紅葉から手を離すと、伊作は「ここで変なことしないでね」と笑って出て行った。
それに反射的に「ばかたれィ!!」と怒鳴り、保健室には真っ赤な顔の俺と、小さく縮こまって唸っている紅葉だけが残された。
「なぁ、伊作が言ってたことって…」
「うあー!!うあー!!」
「…本当なのか、よ」
「…ぐぬぬ………」
「オイ、…紅葉」
「………………ホントウ、デス」
俺以上に真っ赤になって、とても悔しそうにそう言った紅葉の痣だらけの顔が、何だかとても可愛く思えて、俺はくしゃりと笑った。
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