我慢しろなんて人が悪い

草木も眠る丑三つ時。
忍術学園会計委員会の面々は、今日も今日とて池で寝ていた。
忍術学園一ギンギンに忍者していると言われる潮江文次郎が委員長を勤める会計委員会は、帳簿の計算違いが発覚すると鍛錬と銘打ってとんでもない拷問を強いられる。
名物とまで言われてしまった10kg算盤を水に濡らさないように池で眠ることが鍛錬になるということは理解できるのだが、納得できるかと問われれば“否”だ。
特にまだ力もなく体の小さな1年生にはいくらなんでも危険すぎると思うし、季節問わずやることではないとも思う。
更に加えて連日徹夜続き、しかし必死に計算しているというのに、追い討ちを掛けるように鍛錬鍛錬鍛錬…飴と鞭どころか鞭しかないこの方針はいい加減何とかならないものか、というのは4年生の田村三木ヱ門の言葉。
普段は仲の悪い隣り合わせた学年である3年ろ組の神崎左門も、その言葉には首をがくがくと縦に振っていた。

だがしかし、この拷問もどきの鍛錬も、実は一晩と続かない。何故かというと

「会計委員会!!今すぐ池から上がりなさーい!!」

夜明け前には必ず、気の良い保健委員長である善法寺伊作が退避勧告しに来るからである。

「文次郎!!下級生に無茶させるなって何度言えばわかるんだ!!」

普段は穏やかな顔を般若の形相に歪めて怒鳴る善法寺伊作の剣幕に、流石の潮江文次郎会計委員長もたじろぐ。

「いや、これは鍛錬で…」

「バカな事言うなってのも何度言えば分かるんだ!!いい加減盛るよ!?」

「何をだ!!」

普段温厚な人が怒ると怖いというのは事実なようで、潮江文次郎は渋々ながらも白目を剥いている1年生を抱き上げて池から上がらせる。
同じく白目を剥いている3年生の神崎左門を4年生の田村三木ヱ門が何とか押し上げて、自身も池から上がった。
ざぶざぶと揺らめく水面。
そしてすっと目の前に差し出された掌に気が付いた。

「紅葉先輩も上がってください。帳簿計算や整理を手伝いに来てくれただけでもありがたいのに、鍛錬にまで付き合わなくてもいいんですよ?」

そう言って苦笑する田村三木ヱ門の掌をじっと見つめ、潮江文次郎を見る。

「上がりたければ上がれ。俺はここで寝る」

その言葉を聞いて、私は田村三木ヱ門が差し出してくれた掌をやんわりと押し返した。驚いた顔をする田村三木ヱ門をよそに、すいすいと池を泳いで潮江文次郎の隣に落ち着く。

「文次さんがここで寝るなら、私もここで寝ます」

そう言ってにっこり笑う私を呆れた顔で見た2人は、揃って大きな溜息を吐く。

「本当に紅葉ちゃんは文次郎が好きだね…女の子だから体冷やしちゃダメなのに、言っても聞かないもんなぁ…」

「本当に紅葉先輩は潮江先輩がお好きなんですね…物好きというか何と言うか…」

「聞こえてるぞ田村ァ!!」

そう怒鳴った潮江文次郎が池の鯉を引っ掴み三木ヱ門の顔面に投げつける。
びったんと命中した鯉はびちびちと跳ね再度池へと戻った。

「まぁ、2人とも風邪引かないようにね。あとばい菌が入っちゃうから池の中での性交は良くないよ」

「黙れ伊作黙れ」

潮江文次郎の凄まじい眼力で睨まれた善法寺伊作は、顔に鱗の痕が残る田村三木ヱ門と共に下級生を担いで長屋へと戻っていった。

ちゃぷ、と月明かりを反射する水面が揺れて、潮江文次郎が頭の上に乗せた算盤の位置を正す。
あっという間に静まり返った池は、時たま風で揺らいでちゃぷりと小さな波紋を立てるだけで、心地よい沈黙が続く。

算盤を押さえてぼうっと波紋を見つめていた私の耳に、さわりと葉が揺れる音が飛び込んだ。
視線を向けると潮江文次郎が水辺の草の中に身を滑り込ませたところで、私は黙って彼の後を追った。

「…文次さん?」

小さく声を掛けたのに、思った以上にびっくりと肩を震わせて、潮江文次郎はゆっくりと私を振り返る。

「…なんで着いてきた」

「文次さんが移動されたので」

生い茂る草を掻き分けて、彼の隣に身を並べる。
先程とは違い、草に月明かりを遮断されたこの場所は薄暗く、潮江文次郎の瞳だけが矢鱈と煌いている。

「…なんで俺に構う」

ふいと逸らされた視線とは裏腹に、潮江文次郎は私に問いかける。
今更なその質問に、私は何度も何度も繰り返した答えを返した。

「文次さんを、お慕いしていますから」

「バカタレ、忍の三禁を忘れたか」

「いいえ。ですから私は、文次さんに“恋仲になってください”とは一度も申しあげていません」

にっこり笑う私をフンと鼻で笑い、確かにな、と呟いた潮江文次郎の濡れた頬に、彼の後れ毛が張り付いている様をじっと見つめる。
視線を逸らす様子のない私に、潮江文次郎はあからさまに大きな溜息を吐いて、池に沈めていた大きな手で私の頭を乱雑に撫でた。
初めてのその行為に、私の頬はあっという間に朱に染まる。
そんな私を、潮江文次郎は見たこともない穏やかな微笑で見つめ、すいと身を進め私の耳に唇を寄せた。

「…そんな物欲しそうな顔をするんじゃねぇ。卒業するまで首洗って待ってろ、紅葉」

ふ、と囁かれたその言葉に、もう色々と限界が訪れる。
ばっしゃん、と飛沫を立てて池に落ちてしまった10kg算盤を手探りで探しつつも、私は真っ赤になってしまった耳を押さえて潮江文次郎を精一杯睨む。

「ふん、そんな蕩けきった目で睨まれたって怖くもねぇよ」

挑発的に笑う潮江文次郎がどうしたって愛おしくって、下唇を噛んだ。

「…卒業したら、告白だって、抱擁だって、口吸いだって、してもらいますからね…」

悔し紛れに何とか呟いたその一言に、一瞬だけきょとんとした潮江文次郎は次の瞬間くつくつと喉を鳴らして笑い、また意地悪く私の耳元で囁いた。

「…わかったから、いい子で我慢してろ」

甘い甘いその声色に、我慢の臨界点を突破した私は勢いよく池の中に沈んだ。


我慢しろだなんて
人が悪い

お題:確かに恋だった

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