さあ、どうする?

「おはようございます、会員カードをお預かりいたします」

元気な挨拶と愛らしい笑顔で、岩倉紅葉はてきぱきと預かったカードをスキャニングし、資料と共に返す。

「カードお返しいたします。会議室に冷たいお茶をご用意させていただいておりますので、よろしければどうぞ」

そういってまたニコリと笑えば、資料を受け取った初老の男性もにこやかな笑顔でありがとうと会釈した。

ここは公認会計士協会の事務所。本日は会計士の資格保有必須講義が有るので、資格を持った会計士の先生たちが何とか予定をこじ開けて足を運んでいる。
彼女は今年入ったばかりの事務員。特に会計士を目指しているわけではなかったのだが、縁あってここに就職した。
普段は簡単な経理などの一般事務を担当しているが、今日のように講習会があると、その受付を担当している。
最初は会計士なんてお高くとまって嫌な人ばかりだったらどうしようなんて不安もあったけれど、講習会に来る会計士の先生は皆とても優しく丁寧で、いつしか自然に元気な挨拶が出来るようになっていた。会計士の先生たちからの評判も上々で、あの子はいつも元気で見ているこっちも元気をもらえるとか、疲れているときもあの子みたいに頑張ろうという気持ちになると嬉しい一言をもらう彼女の上司である潮江文次郎は、その言葉に甘えるなよと厳しいことを言いつつ、時折様子を見にやってきたりと彼女を気にかけてくれている。
順風満帆な社会人第一歩を踏み出した紅葉は、自分の仕事に楽しさとやりがいを感じ、誇りを持って働いていた。
そんなある日。
講習会の一限目もそろそろ始まるかという時間帯に、受付に飛び込んできた人物がいた。

「雨とか聞いてない!!」

開口一番そう叫んだ青年は、今しがた降り出したであろう雨に打たれてスーツの肩が濡れている。
会議室は空調が効いているので、紅葉はすぐ給湯室に駆け込み、洗い置きしてある自分のフェイスタオルを引っ掴むと受付まで戻り、彼にそれを差し出した。

「あの、良ければお使いください。洗って今日持ってきたばかりですから、きれいだと思います」

「え、あ……どうも…」

持っていたハンカチで鞄等を拭いていた青年は、手の中でぐちゃりと湿ったそれに溜息を吐き、戸惑いがちに紅葉からタオルを受け取る。
叩くようにしてスーツの水分を拭う彼から先に会計士登録カードを受け取り、湿ったタオルと取り換えるように資料を渡した。

「本日一限目の資料です。出席も、時間内にスキャンできましたから」

笑顔でそう言って静かに会議室のドアを開ければ、あまりの親切さに戸惑いを隠せなかった青年は長い睫に縁取られた瞳を優しく細め、小さな声でどうもありがとうと会議室に入っていった。
その背中を見送り、今日は雨なんだと窓の外を一瞥した紅葉は、受け取った湿ったタオルを給湯室に置いてから通常業務に取り掛かる。

その日を境に、紅葉の生活にとある変化が見られた。

雨に打たれた青年…田村三木ヱ門は、その日から講習会があると毎回申込み、毎回顔を出し、そのたびに少しずつ、彼女と喋るようになっていった。
自分の名、見習い会計士であること、大川会計事務所に勤めていること…時には講習会が始まってもお喋りが止まらなかったりした。

「岩倉さん、良ければ明日、お昼をご一緒しませんか?」

そんな大胆なお誘いを受けた時はさすがの紅葉も驚き、咄嗟に断ろうとしてしまった。けれど、周りにいた会計士のベテラン先生たちがそれはもう嬉しそうな顔をして、三木ヱ門は若いくせに結構金持ってるから高い店連れてってもらいなよとか、三木ヱ門は顔だけは良いから連れて歩いて優越感味わっておいでよとか、何かあったらおじさんたちが紅葉ちゃんを絶対守ってあげるから、と外堀を固めてくる。
中には良い弁護士が友達にいるから何されても損をしないとかとんでもないことまで言ってくる先生までいた。
最初は少しだけ引いていた紅葉も、言葉ではひどいことを言いつつ、その実三木ヱ門の肩ばかり持つ先生たちの熱意に負け、そっと頷く。

「では私、明日はお弁当、持ってきません…」

そう呟いて恥ずかしそうに前髪を弄る年頃の乙女に、三木ヱ門は堪えきれずその場でガッツポーズし、会計士の先生たちにチャンス逃すなよと背中を押され、最終的に盛り上がりすぎて協会事務局長の文次郎にやかましいと拳骨を落とされた。

三木ヱ門は先生たちが太鼓判を押してくれただけあって、同年代の中では所謂『勝ち組』というやつで。
誘ったのは私だからと本当に結構なお値段のするお店に紅葉をランチに誘い、講習会がイベントのある月だったりするとさりげなく紅葉に『偶然買ったから』という言い訳付きで手土産を持ってきた。
さすがにクリスマスの時期にブランド物のネックレスを『偶然買った』という理由で紅葉に渡した時は、先生たちだけでなく文次郎もすっ転んでしまったけれど。

そしてそんな2人にある転機が訪れたのは、新しい年を迎えてすぐの、賀詞交歓会だった。
大きなホテルの宴会室を貸切り、会計士の先生たちばかりでなく、市長も顔を出す賀詞交歓会。
そろそろ宴も闌かと、徐々に人数が少なくなっていく宴会場で、まだまだ半人前ゆえに挨拶ばかりだった三木ヱ門が一息ついたとき。

「あけましておめでとうございます、田村さん」

今まで受け付けにいたのだろうか、上品なスモーキーピンクのスーツに身を包んだ紅葉が三木ヱ門に声をかける。新年早々彼女に会えて嬉しかったのか、それとも酒のせいか、頬を赤くした彼がぺこりと頭を下げれば、クスクス笑われてしまった。

「もう挨拶はいいですよ。それより、ご飯食べられました?会場の使用時間はまだありますから、残り物ですけど、良かったら食べていきませんか?」

「え、あ…そうですね。よく考えたら私、挨拶ばっかりですきっ腹に酒を…」

「ええっ!?胃に悪いですから、何か食べていってください!!」

一度目は軽く、二度目は真剣にお誘いを受けた彼は嬉しそうに頷き、隅っこのテーブル席に紅葉と向かい合う様に腰かけた。
残り物というにはあまりにも豪華な料理が並ぶ机を見て、少し酔っているらしい三木ヱ門の口からついつい声が漏れる。

「ああ、いいなあ…」

最初は、料理気に入ってくれたんだな程度にしか受け取っていなかった紅葉の顔が、どんどんと赤く染まっていった。
ああ、いいなあ。新年早々、おいしいご飯を、岩倉さんと食べられるなんて。来年も、その来年も、むしろ毎日でも、一緒に居れたらいいのに。夢気分でそう言った三木ヱ門。彼の顔もまた、直後真っ赤に染まった。

「わ、わた、私今声に出してましたか!!?」

「ハイッ!!全部出てました!!」

上擦った彼の問いかけに、同じく上擦った返答をした紅葉。それを聞いて車に轢かれた蛙のような悲鳴を上げた三木ヱ門は、猿のように真っ赤な顔で、こんなはずじゃなかったのにと呟く。

「こんな、こんなはずじゃ…もっとカッコよく、スマートに、お洒落なレストランで、言うつもりだったのにぃ…!!」

今にも泣きだしてしまいそうな彼。けれど錯乱する姿を見て逆に冷静になったのか、紅葉はぷっと噴き出した。

「ふふ、ふふふっ、田村さんて、そんな顔もされるんですね」

「……へ…?」

「いつもすごく大人っぽくて落ち着きがあって、実はちょっと苦手なタイプかもなんて思ってたんですけど…」

「ふぁっ!?」

「本当はどんな人なのか、今すごく興味がわいてきちゃいました」

そう言って悪戯っぽく舌を出した紅葉は、ぽかんとしている三木ヱ門と少しだけ距離を詰め、いつもの愛らしい笑顔。

「もしご迷惑でなければ、今度は夕飯でもご一緒しませんか?」

「え…」

「ご都合が悪いなら、田村さんのお休みの日に、一緒にお出かけとか…」

「ぇ、い、いやっ、行きます行きます行けます!!いつでも!!」

突然積極的になった紅葉に驚きながらも大喜びの三木ヱ門は、張り子の牛のようにがくがくと首を縦に振る。

これが、2人のなれ初め。



ぞれをずーーーーっと眺めていた文次郎だけは気が付いた。
岩倉紅葉。あいつのあれは、捕食者の目だと。
似たような属性を幼馴染に持つ彼は、今後三木エ門がするであろう苦労を想像し、とても疲れた顔で虚空に向かって微笑んだ。

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