壁に……あり(3)


 鏡子に着いていけば、向かう場所は忍たま長屋の様である。

「見られてる」

 ふと、鏡子の背中が言う。
 俺はギクリとする。

「……そんな、気がしているんだろう」

 鏡子は俺を振り返り、そう言った。俺が頷けば、鏡子も頷く。

「押入れに目があった」

 俺がそう言えば、鏡子は目を見開いて、それからぷふっと吹き出した。吹き出して、けらけらと笑う。

「やれやれ、そこまで分かってんのに……どうして気付かないんだかね」

 笑いながら鏡子が言う。意味が分からぬが、不愉快で、俺は「知らんわ」とだけ答えた。
 鏡子は、また小さく頷いて歩き出す。俺はその後ろを歩く。
 そうこうしている間に、俺と伊作の部屋の前まで来た。

「あれ、鏡子。帰ってたの」

 廊下の向こうから伊作がやって来る。俺は「うげっ」と顔をしかめた。
「やあ伊作」などとにこやかに返事を返す鏡子と僅かに後退りした俺とを伊作は見比べ、うんうんと頷いた。
 止めろ、いったい何を納得したんだ。と、叫び出しそうになるのを、俺は必死に堪えている。

「僕、本を取りに来ただけだから、ごゆっくりね」

「ああ、ありがとう」

 態とらしいくらいににこやかな鏡子の礼に、伊作もにっこりと笑って、部屋から本を数冊取ってきた。
 入り口の前に突っ立つ俺らの横を通り過ぎる時にも、伊作はまたにっこりと笑って「僕、何だったら今日は仙蔵の部屋に泊まるからね」等と宣うのである。

「ああ、ありがとう」

「適当に返すな阿呆っ!」

 結局俺は怒鳴っていた。
 でも、それは伊作の妙に生温い感じのする眼差しで勢いは半減している。
「素直じゃないね」だなんて小さく小さく呟く伊作に、俺はもう反論する気も起きないぐらいの疲れを感じた。
 取り合えず、早く立ち去れだなんて思いながらじとりと見ていれば、伊作はそそくさとまた廊下を歩き去っていくのである。
 溜め息を吐いた俺の横でくつくつと、鏡子が笑う。

「どの道、留三郎も別の部屋に泊まるだろうよ」

「もう、なんでも良いから……とっとと終わらせろ」

「嫌だねぇ、堪え性の無い野暮天は」

「ほざけ」

 鏡子はまた小さく笑い、部屋の中へと踏み入れた。
 まだ日のある内なのに暗く感じるのは俺の気持ちのせいだと思いたい。
 続いて入る俺から思わず出るのは唸り声。

 視線だ。
 刺さるように。
 嘗め回すように。

 やはり気のせいではなかった。
 然し、ただ見られてるだけというのがなんでこんなにも不快なのだろうか。

「目的も意思も無い目線つうのは、薄気味悪いや……分からないんだもんな」

 心を読まれたのかと思った。
 鏡子を見る。鏡子も見返した。鏡子の眼差しの感情は読めなかったが、それでも、今、全身に感じている視線とは明らかに質が違うのが分かる。
 何百ともあるのではないかと思うそれは、ただ、俺を見ているだけだ。

 物も言わず
 何も思うこともなく。
 ただ、見る。

 俺の肌が、ぞわりと粟立つ。

「分からないっていうのは、怖いものだね、留三郎」

 宥める様にそう言って、鏡子が向かったのは押入れ。
 ぞんざいな手付きで開く様に、俺の体は固まる。

 布団が入っている。何も無い。
 鏡子は布団を引きずり出す。何も無い。

 鏡子は、押入れの中を覗きこむ。暫く、ごそごそと何かをやっている。
 べりり、べき、べき、と、音がした。

「留三郎」

 押入れを覗き込んでいた鏡子が、此方に身体を戻して振り返った。床に何かを捨てる。薄い、手で折れる程に薄い板の欠片だった。

「見てみな留三郎」

 俺は首を横に振る。
 鏡子は笑う。

「見られてるのなら、見返してやらねば。負けちまうよ、留三郎」

 俺は、鏡子を見る。
 鏡子が此方に手を伸ばした。俺はのろのろとその白い冷たい指に触れる。
 するりと、引き込まれる様に握られ、そのまま「おいで」と引かれた。
 抵抗だってできそうな力加減のそれに俺は従い、ゆっくりと鏡子の隣に立つ。
 冷たい鏡子の手を握りながら、俺は押入れの中を見た。中には、先程、鏡子が手から落とした薄い板の欠片が大小散乱している。錆び付いた釘も落ちていた。
 これで留めていたのか、仕事が雑だな、等と妙に呑気な事を思いながら、俺は顔をあげた。




 押入れの、奥の壁に、目、が、あった。


 それは、墨で書かれた『目』の字だ。


 目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目……


 数えるのが億劫な程に、壁一面にひしめき合った『目』の字だった。


「留三郎の背中にも、これが着いてたよ」

 鏡子が壁に手を伸ばす。
 壁に手を触れると、触れた『目』の字が少し崩れた。
 その壁に触れた手で鏡子は、ついさっきと同じ様に首を掻いた。

 真っ白い鏡子の首に、黒い線が着く。

 墨が乾いていない。

 そう思った途端、俺は叫び声をあげながら部屋から飛び出していた。



 その晩は鏡子の言った通りに、伊作と二人揃って仙蔵の部屋に押し掛ける様にして泊まり、翌日に先生に詰め寄る様にして部屋を変えて貰うことになった。
 先生方は血相を変えた俺と伊作を見て、開口一番に「やはりか」とだけを言い、至極あっさりと別の部屋を与えてくれたのだった。

 何が「やはり」だったのか。
 それに、俺は良く覚えている。釘は、『錆び付いていた』のだ

 俺が叫んだ理由はそこにある。

 長い間外されていなかったのであろう板に隠されていた字の墨は、何故乾いていなかったのか。
 分からない事だらけであるが、一番分からないのは、それが、何の為に書かれたかという事だ。

 分からない。
 それが、怖い。

 その部屋は今も使われておらず、物置になっているらしい。

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