壁に……あり(2)

その日の夜だ。
 伊作は、新しい煎じ薬の作り方を教わっただとかで、洗い髪も碌に拭かずに肩を濡らしながら鍋をカタカタとかき混ぜている。
 俺は、その向かい側に座り、薬の匂いにむずつく鼻を気にはしながら、布団には入らず、それを眺めていた。

「留三郎、」

 鍋から目を離さず、伊作が俺を呼んだ。

「その視線っていうのは今もまだ感じるのかい?」

 俺がまんじりともせずそこに座っているのだろうと、伊作はそう思ったのかもしれない。まあ、事実そうであるから、俺は頷いた。
 頷いた後に、伊作が見ていない事に思い至り、「もう慣れた」と、声に出して返した。
 すると、伊作がやっと鍋から目を離し、呆れた様な、だが、気遣わしげな苦笑を浮かべるのである。

「慣れてくる頃が、危ないんだよ」

「……アイツの受け売りか?」

「違うよ。僕の持論。慢性的な頭痛や腹痛とかについての話だけどさ」

 また墓穴を掘った様な気がする。
 俺は口を継ぐんで立ち上がる。布団を出して、一先ず敷いてしまおうかと押入れを見た。押入れの、板戸は僅かに、指一本分ほどに開いている。


 その隙間で、人の眼が一つ覗き、きろりと動いたのを見た。


 と、思った瞬間、俺は半ば、飛び掛かるようにして押入れを開けている。

「うわっ!どうしたの!?」

 伊作の驚いた声が背中に聞こえる。
 どわっと、噴き出した汗は、首筋や背中をを流れていく。
 開けたそこには、何もいなかった。
 何もいないが、張り付くような視線は、相変わらずある。いや、これは伊作かもしれない。分からない。

「留三郎?」

「油虫が、いた気がしただけだ」

 咄嗟に嘘を吐いて、振り向けば、伊作が此方を見ている。俺の喉が、ひくりと上下した。

「……見るな」

 伊作の視線、そして何かからの視線。堪えかねて、ついそう口に出していた。
 この日も結局、一晩中、碌に眠る事が出来なかった。


 鏡子が帰って来たのは、この夜から二日後の昼過ぎだった。
 こう書くとまるで待っていたかの様で癪だが、事実、俺はその日は朝から正門前にちょくちょくと足を運んでいたのであった。鏡子から一方的に聞かされた実習期間を頭の端に置きながら、アイツが白い顔を引っ提げて正門の戸を潜るのを待っていた、という事になる。

 その昼過ぎ、ちょうど三度目くらいに正門前に足を運んだ時だ。
 ととん、と、戸を向こうから叩く音がして、俺は思わずその場に足を止める。
 来客等を出迎える筈の小松田さんは近くにいない。俺はしばらくそこにつっ立っていたが、再び戸を叩く音がして、仕方なく、戸に近付いて閂を外したのだった。
 そこにいたのは、全く俺の予想通りで、寧ろ期待通りとも言った方が良い程で、それが妙に忌々しくて顔が勝手に歪む。
 開かれた戸から軽く頭を覗かせた下坂部鏡子は、そんな俺を見て、目を瞬かせて、それからふにゃりとふやけた笑みを浮かべた。
 常、ぎょっとする程に白い顔の、その目許が微かに赤くなり、目尻は細めた事で更に下がっている。ふやけたままふわふわと溶けていきそうな笑みだった。

「あやぁ、留三郎がお出迎えたぁ、嬉しい事もあるもんだ」

 そんな風に笑いながら、眉間に向かって伸ばされてきた鏡子の指を俺は後退りで避ける。

「またえらい見事なしかめっ面だこと」

「偶々だ。偶々見かけたから開けただけだ」

 俺が避けた事も、会話が噛み合っていない事も、然して気にする風でもなく鏡子は、衣擦れの音すら無いくらい静かにまた間合いを詰めてきた。
 淡い藤花色の着物の肩を真っ黒い髪が少しだけうねりながら流れる。
 蛾だとか蝶だとか、そういう羽虫を思わせる。と以前、仙蔵が言っていた事をふと思い出した。

「あや、」

 お決まりの独特な感嘆符を溢しながら、俺の背後を覗く鏡子にギクリとした。視線は、今も感じている。
 鏡子は、ふっと、腕を上げたかと思えば俺の背後へと回り、パサパサと軽い手付きで俺の背中を手で払う。

「……何かいんのか」

「ん、んー……」

 鏡子は小さく唸って、払うのを止めた。振り返れば感情に乏しい無表情で首を捻り、自分の手をじぃっと見下ろしている。

「めぇ、だなぁ……かたちは、ない、けど……」

 耳を済ませばやっと聞こえる様な小さな声でそう呟いた鏡子は、見下ろしていた手で自分の首を撫でた。
 それを俺は黙って見ていた。鏡子の伏せた眼がふと上がって俺を見る。当時からこいつの身丈は俺とそう変わり無い位置にあった。

「字ってのは、ものの形から生まれてものの形を成してんのさ」

「何の話だ」

「留三郎は、物を知らないねぇ」

 態とらしく呆れた様な物言いも含めて耳にタコの鏡子の揶揄。

「知らんで構わん」

 それに返す、これまたお決まりの俺の言葉に、鏡子は小さく笑って踵を返す。

「さて、行こうか留三郎。大丈夫さ。そんな危険でも無い」

「お前の大丈夫ほど信用ならんもんは無い」

 またもやお決まりのやり取りだ。非常に不本意ながら、それに安堵の様な物を覚える俺はただ大人しく、鏡子に着いていくのだった。


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