壁に……あり(1)

嫌悪や恐怖の迫り方というものは、凡そ二種類ある気がしている。
 余りにも理不尽に、唐突に噛み付くように襲い来る類いがある一方で、然り気無い違和感がしんねりと積み重なり、ふと気が付けば酷い重さになっている様な、そんな類いもある。
 今思うと、その一件は、後者だった。

 四年生の頃だ。

 最近、視線を感じる。
 と、俺がポツリと呟いた時に、同級の善法寺伊作は

「紅葉から?」

と、さも当然の様に返してきた。

 俺の顔が、その言葉で勝手に歪む。口の中の甘めの沢庵が苦くなった様にすら感じた。
 そう、その始まりは、食堂だった。
 いや、本当はその前から始まっていたのかもしれないが、俺がポツリと何気無く言ったその言葉から、『それ』がはっきりと形になったのである。と、今なら分かる。

「違う、断じて違う」

「留三郎ったら、凄い顔だなあ」

 伊作はのほほんと、ある種取りつくしまも無い。
 当時は、色々とあってアイツを、下坂部紅葉を嫌忌していたものであるから……いや今だって好ましいなどとは断じて言わないが……まあそれは置いといて……伊作にとっては、その時の俺の態度や渋面は、あまりにお馴染み過ぎて飽いたものだったからこそのあっさりのほほんとした返しであったのだと、これまた今でなら分かる事なのだが、当時の俺にその呑気さは更に不機嫌にさせる要素でしか無かった。

 俺は、湯飲みを置く。
 少し荒い音が立ち、そこで漸く伊作の眉が僅かに潜められたのだった。

「第一、アイツは課題の任務中で今学園にいねえだろうが」

「え、そうなの?……よく知ってるね」

 墓穴を掘った。
 ニヤッと笑う伊作は今も昔も多大な勘違いをしている。
 俺は頭が痛くなった様な気がして、顔を俯けながら溜め息を吐く。
 其処に、ふっと背中をなぜる様な気配を、視線を感じた。
 それに振り返る。
 膳の上の食器がガチャリと鳴り、伊作の「わっ!?」と小さく叫ぶ声がして、遅れて俺は、自分がかなりの勢いで振り返ったのだと気づいた。
 腹の底がざわざわとする。
 思っていた以上に、俺は消耗していた。

「……んだよ、仙蔵か」

 そう、今感じた視線が、見知った相手からのものだと認識できて安堵の息を吐くくらいには。

「私で悪いか。青瓢箪」

「ああ、そう言えば少し痩せたね」

 俺の隣に腰を下ろしたい組の立花仙蔵の吐いた毒を、伊作は真に受けて更に眉を潜める。
 手を伸ばしてきて俺の額を触り、「熱は無いか……でも寝ていないんじゃないか」と、そのまま俺の目の下を指で掠める様に撫でた。
 俺の目許には、あの熱血馬鹿ギンギン野郎の様に見苦しくは無いにしろ、うっすらとした隈が渡っていた。

「……気付かなかった。すまない留三郎」

 同室なのに、と、伊作は顔をしかめる。
 保健委員らしい心配に、俺は「気にするな」と返すが、声に説得力は乗らなかった様に思う。

「早くも夏負けか」

 膳に手を合わせながら仙蔵が聞いてきた。

「いや、なんでも視線を感じるらしい」

 ああ、そのまま仙蔵に言ってしまうのかお前は。と、俺は伊作に少し呆れた。
 仙蔵ははたと動きを止め、目を瞬いてから俺を横目に見る。

「紅葉のか」

 何でだ。
 伊作と言い、仙蔵と言い、何で、お前らはアイツと結び付けたがるんだ。否、アイツならあり得そうでもあるが、そもアイツは学園にいないのだから……ああ、でもそれを言えばまた余計な事を言われるのだ。溜め息が出る。

「違う」

 溜め息と共に俺が答えたらまた伊作が勝手に「紅葉、今いないんだって。留三郎が言うには任務中だとかなんとか」等と仙蔵に説明してしまうのである。

「流石、相棒殿は詳しいな」

 案の定の反応である。
 反論する気力は大分削がれていたが、それでも半ば条件反射で苦言を述べようとした、瞬間。

「わっ、また?」

 再び背後を振り返った俺に、伊作がまた驚いた声をあげた。
 反動で湯飲みがゴトリと倒れた。
 今度は、その視線の正体と納得できるものは、無い。数名の後輩や同輩達が怪訝な表情で此方を見てきたが、それは違うのが分かる。
 現に今も視線を感じている。
 首筋と背中にチリチリと刺さるようなそれに、俺は、はふと息を吐いた。
 気のせい。と言えばそれまでの様にも思うが、それが数日に渡る場合はどう解釈すれば良いのだろう。

「……紅葉が帰って来たら、相談してみたらどうかな?」

「勘を鍛えすぎて過敏になっておるだけかもしれんぞ、戦闘馬鹿も程々にな」

 伊作の提案には素直には頷けず、かといって仙蔵の解釈にも素直に納得できない。
 俺はまた、はふ、と息を吐きながら、膳を片付けようと立ち上がる。
 身体が重たく感じるのは寝不足のせい、だと思う。

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