短冊、ひらり

今日は7月7日、七夕。
梅雨が明けるか否かという微妙な時期だから、毎年どんよりと雲がかかった空を見上げては溜息を吐いていた私は、久しぶりの見事な天の川に目を奪われる。

「今年は、綺麗に晴れましたねぇ」

「そうだな。去年は夕方から曇って、誰かさんがべそをかいていたな」

無意識のうちに音となって零れ落ちた声に返答があって、ぱちりと一度瞬きをしたけれど、次の瞬間私はぷっくりと頬を膨らませた。

「私、泣いてないですよぅ」

「誰も三葉のことだとは言っておらんが?」

涼やかな声の主はそう言って笑うと、火傷の跡が所々に見受けられる手で膨らんだ頬を突いた。その行為によってますますパンパンに膨らんでしまった私の顔を見て、声の主、立花仙蔵先輩はコロコロと笑う。
しばらくぷこぷこと怒っていたんだけれど、いじわるながらも優しい仙蔵先輩の笑顔につられて笑えてきてしまって、食堂に続く渡り廊下に飾られた笹の葉を見上げた。
せっかくの七夕だからと、今日の昼間に用具委員会委員長である食満留三郎先輩が下級生たちのために用意した背の高い一本の竹。
丁度渡り廊下の真ん中に位置する柱に括りつけられたそれは、下級生たちが嬉しそうに作ったたくさんの七夕飾りと短冊の重さでぺこりとお辞儀をしている。
風が吹くたびサラサラと優しい音色を奏でる笹の葉と短冊を見つめていると、その中に見慣れた文字を見つけて笑いが込み上げてきた。

「あ、あの一番上にあるのは小平太先輩の短冊ですねぇ」

「ああ、一番上は体育委員会が占拠したからな」

「ふふっ、いけいけどんどんって書いてありますねぇ」

「どういう願いなんだろうな」

「あっちのは仙蔵先輩ですよね?字が綺麗だからすぐわかりましたぁ」

「ああ。ちなみに私の短冊の下にあるのが文次郎の短冊だ」

「ほぁ…鍛錬…って、お願いなのかなぁ…?」

風が吹くたびにひらひらと揺れる短冊に書かれた色々なお願い。その内容を見るだけで大体誰のものなのかがわかってしまうので、ちょっぴり面白い。
短冊いっぱいにでかでかと書かれた小平太先輩の短冊から視線を下げ、力強い文字で鍛錬と書かれた短冊を覆い隠すように飾った仙蔵先輩の短冊からさらに視線を下げれば、それを追ったらしい仙蔵先輩が、ひときわ目を引く真っ赤な花の飾りの近くで揺れる一枚の短冊を見つけてくっと笑った。

「三葉の短冊はあれだな。≪みんなにいいことがありますように≫とはまた、お前らしい願いだ」

「えへへ…」

その一言でくすぐったい気持ちが込み上げ、照れ笑いがこぼれる。
私の身長よりも高い位置に結び付けられている短冊。あれは、一緒に短冊を書いた三郎先輩が代わりに結んでくれた。
相変わらずだなと優しい瞳で私を見た仙蔵先輩は、もう一度竹を見上げ、まるでシャッターを切るかのようにしっかりと瞬きをする。
涼を感じさせる虫の声の中、私の背中をポンと叩いた彼は、そろそろ自室に戻ることを伝えてからその場を後にした。
おやすみと告げてから背を向けた先輩が溶けた廊下の闇をしばらく見つめていたけれど、キラキラと瞬く星をもう一度見上げて、そろそろ私も部屋に戻ろうと視線を下げてくのいち長屋の方角を向いた…だがその時、不意に足元からくしゃりと音が聞こえて立ち止まる。

「ほぇ…?」

空から廊下に視線を落とせば、足元には、一枚の細長い紙。

「誰かの短冊が落ちちゃったのかな?」

そう呟きつつ、危うく踏みかけた紙を拾う。
誰かの、とは言ったものの多分きっと恐らく保健委員会の誰かのものだろうなぁ、と心の中で苦笑いして、拾い上げた紙をなんの気なしに見て、しまった、と青褪めた。
短冊と同じ寸法の紙には、じわりと滲んだ歪な文字でこう書いてある。

“うしろをみて”

紙を持つ手に嫌な汗が浮かび、頬を撫でていた心地よい風が禍々しさを纏いだす。このままでは妙なモノが寄ってきてしまうと直感してしまったので、こくりと小さく喉を鳴らすと意を決して勢いよく後ろを振り返った。

「………あれ?」

しかし、私の背後にはいつものように、食堂に続く渡り廊下が伸びるだけ。夜の闇が影を落とす廊下は確かに不気味だけど、どこにも、何もいない。
ひょっとして誰かのいたずらだったのかとちょっと恥ずかしくなって頬を染めたけれど、でも何事もなかったことに早鐘を打っていた胸を撫で下ろし、私は安堵の息を吐いた。
しかし次の瞬間、ひゅっ、と喉が鳴る。

「やっ…!!!」

短く悲鳴を上げて、手に持っていた紙を離す。
ひらりひらりと揺れながら廊下に落ちた紙。ついさっきまで“うしろをみて”と書かれていたそれには、何故か赤い染みと、先ほどよりももっと歪な、まるで書き殴ったような“うえをみて”の文字。
不可解な現象に身を縮ませていれば、さらに不可解な現象が映る。
紙の中央から、じゅわりと広がる赤いもの。それが紙いっぱいに広がったと思えば、背後から気味の悪い息遣い。
明らかにすぐ後ろにいるソレは、触れるか触れないかの距離で呼吸を荒げている。
あまりの恐ろしさにがくりとその場で膝をついてしまうと、風もないのにふわりと手元に滑ってきた紙にびくりと肩をはねさせた。

“うえをみなさい”

“うえをみろ”

私の目の前で、短冊の文字が滲み、歪み、どんどん強い言葉に変わっていく。

“うえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろうえをみろ”

ついには紙びっしりに浮かんだぐちゃぐちゃの文字と、より大きく聞こえる荒い息に震えが止まらない。

「やだっ、やだやだ!!見ない!!見ないもん!!」

恐怖のあまり大きな声で叫んで、何も見えないように廊下に俯せる。
突然の怪異に混乱する頭で、私は必死にあっちいけ、あっちいけと願った。
だけどそう願うたび、荒い息は私に近付く。まるで覆いかぶさっているような位置から聞こえるソレに、冷たい涙が零れた。
風の音も虫の声もかき消す気持ち悪い息遣い。
とうとうそれだけしか聞こえなくなってしまった私の耳。もう嫌だと、耳を塞ごうとした私の手が、ぐいっと勢いよく引かれた。

「ひっ…!!」





「ああ、驚かせてしまいましたね…すみません…もう大丈夫ですよ、時友三葉さん」

「し、斜堂、先生…?」

「可哀想に、こんなに震えて…歩けますか?」

突然開けた視界に映ったのは、お化けと見紛う斜堂影麿先生。蹲っていた私を片手で起こした先生は、潔癖症だというのにつまんだハンカチで装束についた埃をぱっぱと払い、頬を濡らす涙を恐る恐る拭うと、そのまま私を抱き上げて、まだ明かりが消されていない食堂まで連れて行ってくれた。
どうぞと差し出されたお茶を一口含んでやっと落ち着いた私は、とりあえず助けてくれたお礼を言って頭を下げる。
それを手で制した斜堂先生は、血の気が失せた顔に微かな笑みを浮かべた。

「時友三葉さん…あのようなものを拾っては…いけませんよ」

「はぅ…ごめんなさい…」

「今度から、気を付けなさい…それを飲んだら、長屋まで送りましょう…」

「斜堂先生…ありがとうございますぅ…」

気持ちを落ち着けるようにちびちびとお茶を飲みながら、私はとてつもない安心感に包まれていることに気が付いた。綾ちゃんよりも暖かくて、仙蔵先輩よりも心地よくて、小平太先輩よりもずっと強い安心感。
ひょっとして、斜堂先生は…そう思った私がちらりと先生を見れば、先生は生気のない目でじっとどこかを見ていた。

「…なるほど…」

「ほへ?」

「三葉さん…貴女の目には、異形のモノもそうでないものも、すべてが等しく映るのですね…」

「え…」

私と親しい人にはすでに広く知られている、私のちから。だけどそれを、斜堂先生に話した覚えはない。ううん、それどころか、私は作法委員会に所属しているくせに、あまり斜堂先生とお話したこともない。
だけど先生は確信をもってそう言うと、困りましたねえ、なんて呟いてゆらゆらと揺れている。
どうしてわかったのか詳しく聞きたかったんだけど、残念ながらそこで私の湯飲みは空っぽになっちゃったから、先生に促されて食堂を後にした。
くのいち長屋まで、暗い廊下を歩いていく。さっきの恐怖が消えたわけじゃないけど、それよりも気になることがあったから、先生からあまり離れないように、でも潔癖症の先生が嫌がらない距離で、私は問いかけた。

「斜堂先生…どうして私が“よく視える”って、ご存じなんですかぁ?」

ひょっとして仙蔵先輩から聞いたのかな、なんて思って首を傾げたら、斜堂先生は私を見て、ふふふふと不気味に笑うと、私を…正確には、私の背中を指差して、こう答えた。

「さっき、聞きましたから…」

貴女のことを貴女よりもよく知る方にね、と呟いた斜堂先生はそれっきり私の質問には答えてくれなくて、私を部屋まで送ってくれると、お礼を言う間もなくふっとその場から消えた。

「斜堂先生…初めてゆっくりお話しした気がするけど、なんだかお化けよりもお化けらしい先生だなぁ…」

ちょっと失礼かなとも思ったけど、本当にそう思ったから仕方ない。今度から顔を合わせたら、挨拶だけじゃなくてもっとお話ししてみようと決めた私は、部屋に入りぱちりと扉を閉めた。





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『三葉、昨日の夜私と別れた後に青白い顔のオバケに長屋まで送ってもらったっていうのは本当か?』
『青白い顔のオバケ?違いますよぅ仙蔵先輩、送ってくれたのは斜堂先生ですよぅ』
『なんだ、見間違いか』
『襲ってきたのはですねぇ、視てないからよくわからないですけど、ものすごいハァハァ言ってました』
『留三郎ちょっと話がある』

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