月影少女

もう夏も近いある日。梅雨の最中の雨間で、月が綺麗に見える夜だった。
本格的な夏になると、日が長いからとぶっ通し鍛錬する生徒が出てくるため傷薬の消耗が激しくなる。だから僕、善法寺伊作は保健委員会の委員長として、ここのところ薬の大量生産に追われていた。

「っていっても、作っても作ってもバカ2人がくだらない喧嘩して使っちゃうんだよなぁ。もういっそ塩…いや、辛子味噌でも傷口に塗り込んでやろうかなぁ」

窓から吹き込む生ぬるい風が肌を舐めるたびに気持ちが悪くて、ついつい毒を吐いてしまう。
医務室の夜間当番をこなしながらごりごりと薬草を煎じていると、ゆらりと明かりが揺れたのが視界の端に映って、僕は手を止めた。
忍術学園の医務室は、実は夜間利用者が多い。
それは実習帰りの上級生だったり、見回りに出た先生方だったり、急に体調を崩した生徒だったりとまちまちだけれど、こんな嫌な風の吹く夜には、招かれざる客も来ることがある。
そんなときは、決まって明かりが不自然に揺れるんだ。

『伊作先輩、明かりがぐにゃって揺れたときは、ちゃんと気配を確認してから扉を開けるようにしてくださいね』

耳の奥で聞こえた、可憐な声。
怪異を視る力を持って生まれた少女、時友三葉がいつか僕に言った。
学園でも…ううん、多分この世で群を抜いて強い霊感を持つ彼女は、非力な癖に勇敢で、優し過ぎるが故に数多くの怪異現象に巻き込まれてしまう。
僕を筆頭にそういった類のモノを“寄せて”しまう保健委員会が集うこの医務室は、彼女曰く“集会場”になってしまっているらしいんだけれど、視えない僕にはわからない。時々確かに物が移動していたり、無くなったり、物音や声がしたりとかもあるんだけれど、正直それよりも自分たちの不運でとんでもないことになっちゃったりすることのほうが多いからあまり気にしないんだよね。気にしないというより、それどころじゃない、というか…。
だけど、彼女は僕たちのことを心配して、苦手な“集会場”に様子を見に来てくれることがあるんだ。
自分だって怖いのに、僕たちが怖い目に遭わないように。
そんな彼女に心を奪われたのは、一体いつ頃だったかなぁ?
と、思考が迷走を始めてしまったとき、僕を現実に引きずり戻すかのように、医務室の扉が強く叩かれた。
あまりの勢いに飛び上がってしまった拍子に、煎じていた薬をひっくり返す。もうすぐで完成というところでおじゃんになってしまった薬がドロリと床に広がっていくのを見て、悲しいやら悔しいやら腹立たしいやら、いろんな感情が綯交ぜになってしまった僕は、もういいやと大きなため息を吐き出し、扉を叩いた人物のせいにしちゃえと…いや、実際そうなんだけど、とにかくそう思って、ちょっと乱暴に扉を開いた。

確認をせずに。

窓から差し込む月明かりの強さから、僕の視界に飛び込むのは扉を叩いた人物と、大きな月のはずなんだけれど

「え」

僕の視界を占めるのは、月どころか地面も空も、何もかもを飲み込む漆黒と

「なに…これ…」

漆黒に浮かぶ夥しい数の 目 だった。
渦を巻く目が一斉にギョロリと僕を見た動きで、全身からどっと汗が噴き出す。それくらい気色悪かったんだけど、それを超越する恐怖。僕でもわかる、これはヤバい。
頭の中で今すぐ扉を閉めろと叫ぶ声が聞こえるんだけど、体はいうことを聞かない。それどころか視線さえも逸らせなくて、声も出ない。
吐き気を催す漆黒から、とうとう僕に向かってずるりと何かが伸ばされ、短い悲鳴を漏らした喉に絡みつこうとした。
呑み込まれる…無意識にそう思い、あまりの恐怖にぎゅっと目を瞑った瞬間。

「伊作先輩?」

僕の耳に届いたのは、可憐な声だった。
驚いて目を開ければ、そこには見慣れた景色。漆黒は一瞬にして消え失せ、代わりに大きな月を背負った寝間着姿の時友三葉ちゃんが、いつもは結い上げている柔らかな髪を風にふわふわと踊らせて立っている。

「三葉、ちゃん…?」

「伊作先輩」

「え、あれっ…僕…」

唐突に変わった光景に呆然として、きょろきょろと周囲を見渡しながら呟けば、三葉ちゃんは月のせいでおぼろげに光る輪郭の小さな手をそっと伸ばして、僕の頬に触れた。

「よかった。もう、大丈夫ですよ」

夜風に吹かれたからか、ほんのりと冷たい小さな手が僕の頬を撫でた瞬間、どくりと胸が高鳴る。見慣れていない寝間着のせいか、それとも髪を下しているからか、いつものふんわり穏やかな雰囲気とは一変して、神秘的でどこか妖艶ささえ醸し出す彼女。
まるで彼女から重力でも発せられているかのようで、僕はそれに抗えず引き寄せられる。
小柄な体をそっと抱き寄せ、どくどくと早鐘を打つ心臓を深呼吸で黙らせようとしてみても、それは無駄な努力で。
遠くから聞こえる蛙の声が、がんばれって言っているみたいに聞こえたから、だから僕は三葉ちゃんの柔らかな頬にそっと触れて、不思議な色に煌く瞳を見つめて、空気と一緒に大事な大事な想いを吸い込み、吐き出した。

「三葉ちゃん、ぼっ、僕と、お付き合いを前提に結婚してくださいッ!!」

んだけれども盛大に失敗というかいや噛んではいないんだけど順序あああああああああああ!!!
結婚を前提に付き合ってだろ僕のバカぁぁぁぁ!!と、肝心なところでやっぱりとちってしまった自分の失態を嘆きながら頭を抱えたら、突然脛に走った鋭い痛み。

「痛ぁぁぁぁッ!!!」

「おやまあ善法寺先輩すみません、蚊だと思ったら脛毛でした」

頭から脛に手を動かして廊下に倒れた僕に投げつけられた、温度も抑揚もない冷たい声。確認しなくてもわかる、絶対僕の恋敵だ。

「あっ、あっ、綾部ぇ!!何てことするんだよ!!」

「すいません、痴漢だと思ったもので」

涙が浮かぶ瞳で睨み付けても、彼…綾部喜八郎は僕の脛を強かに突いた踏鋤をぶんと回して肩に乗せ、三葉ちゃんを僕から遠ざけるように背後に隠して絶対零度の瞳で見下ろして…いや、見下していた。どうでもいいけど言い訳くらいは徹底してよ!!
脛の痛みでぐっと唇をかんだ僕がしゃべれないのをいいことに、綾部は三葉ちゃんを抱き寄せ、僕には一生涯向けないであろう優しい笑顔と穏やかな声で語りかける。

「三葉、大丈夫?変なこととかされてない?」

「綾ちゃん」

「僕が部屋まで送るよ。夜の忍術学園には危険がいっぱいだからね」

その一言とは裏腹にギラリと光った彼の瞳を見て、僕はどの口が、と呻く。間髪入れず踏み隙が振り下ろされたけど、何とかかわした。

「ま、あながち間違いでもないですけど…ねえ三葉、僕もオトコノコなんだから、覚悟してね」

油断大敵だよ、なんて呟いて、綾部は三葉ちゃんの唇をチョンと指で突いた。性格には大いに難があるけど、アイドル学年なんて言われているだけあって顔立ちは整っている彼にそんなことされたら普通の女の子はときめいちゃうよなぁ、なんてそこはかとない敗北感に襲われた僕は、恥も外聞もかき捨てて縋るような視線を三葉ちゃんに向けた。
きっとうぶな彼女は真っ赤になって慌てているんだろうなぁ、と予想したのだけれど、しかし彼女は月明かりの中、大丈夫だよ、と笑っていた。

「三葉…?」

「三葉、ちゃん?」

「大丈夫。私、ひとりで帰れるから」

「え、」

「ちょっ…」

いうが早いが、僕たちの言葉に返事もせず、彼女は軽い足取りでその場から去ってしまい、伸ばした手は揃って空を切った。
なんだかいつもと雰囲気が違いすぎる三葉ちゃんに驚いたけれど、それを考える間もなく抜け駆けなんかさせませんからと唸った綾部に襲われて、夜が明けた…。
だけどそれ以上に驚いた…というか微妙だけど、とにかく昨日の告白をリテイクさせてもらおうと思って声をかけた三葉ちゃんが

「ほえ?昨日の晩ですかぁ?私、医務室には行ってませんよぉ?」

と言ったので、僕はあらゆる意味で震えあがった。




@(2周年企画/月猫様、ちゃ様)

[ 87/118 ]

[*prev] [next#]