みえない人にはわからない

夏も近いある雨の日。
学校が休みで特に用事もなかった私は、お気に入りの紫陽花色の傘を上機嫌にくるくると回しながら、正門前に咲いている綺麗な空色をした紫陽花を眺めていた。

「あれ?おねえちゃん?」

「ほぁ?」

大きな萌黄色の橋を渡るかたつむりをじいっと眺めていた時、背後から聞きなれた声。
振り返れば、そこには私の2つ下の弟、時友四郎兵衛が所属委員会の後輩と手を繋いで立っていた。

「おはようしろちゃん。と、金吾くん?どうしたの?雨の中2人してお出掛け?」

「おはようございます、三葉先輩。実はぼくたちこれから…」

「戸部先生と、お出掛けなんだなぁ」

体をすっぽりと覆い隠してしまうくらいの生成り色の傘をくるくると回しながら、金吾くんとしろちゃんが笑顔で教えてくれたのは、今日の予定。
なんでも、春休みに戸部先生が借りていた家をいつもの行動で追い出されてしまい、今日は新しく借りる予定の家を見に行くみたい。
実家が遠い金吾くんは、休みの間戸部先生のおうちで面倒を見てもらっているし、剣術の師範として戸部先生を慕っているのでついていくのはわかる。そしてしろちゃんは、きっとたったひとりの可愛い後輩を放っておけないんだろうなぁ。

「そうなんだぁ」

「そろそろ戸部先生もいらっしゃると思います。あ、よかったら三葉先輩も一緒に行きませんか?」

私からしてみればまだまだ甘えっこな弟が、しっかり先輩の顔をしていることに気付いて小さく笑っていたら、金吾くんから思いもよらないお誘いを受けてしまった。一瞬戸惑ってしろちゃんの表情を伺い見れば、彼も同じように行こう行こうと頷いている。

「んー…じゃあ、ご一緒させてもらおうかなぁ」

えへへ、と頬を掻いて立ち上がり、かたつむりにバイバイと手を振ったところでやってきた戸部先生。遠足じゃないんだがなと呟いた小さな声、ちゃんと聞こえましたからね。

ざあざあと雨が降りしきる中、辿り着いたのは学園からそう遠くない町の外れの長屋。あまり人が住んでいないのか、閑散とした長屋には所々痛みが見えた。
挨拶ついでにと案内してくれた大家さんは、なかなか借り手がつかなくてねぇと愚痴をこぼしながらも始終にこにこしていて、とても優しそうに見える。
大屋さんとお話をしながら歩く戸部先生、その後をしろちゃんと金吾くんが手を繋いで歩き、最後を私がきょろきょろしながらついていく。
確かにあちこち痛みがあるけれど、とても温かい感じがする場所だなぁなんて思いながら案内された長屋の一番奥の敷居を跨いだ瞬間、じわりと掌に汗が滲んだ。

「うちの長屋で一番広い家ですよ。ここは痛みが少なくて雨漏りもしないから、すぐにでも住めますから」

「ほぉ、確かに広い…家賃は本当に同じなんですか?」

「ええ、ええ。ご覧の通り閑古鳥でしてね。誰も借りてくれないよりは安い家賃でも住んで欲しいんですよ」

「なるほど……金吾、どうだ?」

にこにこ、にこにこ。人好きのする笑顔を浮かべた大家さんとお話をする戸部先生。一緒に住む金吾くんにも感想を聞いて、ここなら戸部先生が暴れても大丈夫そうですねなんて2人して笑っている。
高い天井、太くて立派な梁、いい具合に艶が出ている大黒柱、どんとした囲炉裏に、広々とした土間と台所…2人で住むには広すぎるお部屋。それを格安で借りれるのなら、普通の人は万々歳で即決するだろうなぁ。
−−−だけど。

「どうですか四郎兵衛先輩、三葉先輩!!土井先生のおうちより広いですよ!!」

輝く笑顔で嬉しそうに駆け寄ってきた金吾くんに苦笑いを返した私としろちゃんは、顔を見合わせてから、うーん、と言葉を濁す。

「…ねえ金吾、ぼくも確かに広いと思うけど、ちょっとお買い物に不便じゃないかなぁ?市場まで結構距離、あったよ?」

「え…」

「それに、天井高いけど梁があるから刀を振り回したときに傷つけちゃわないかなぁ?土間だって、確かに広いけど台所は普通だし、もうちょっと他のおうちも見てから決めたって遅くはないと思うなぁ」

「そ、うですか…?」

好条件にすっかり舞い上がっていた金吾くんは、私としろちゃんの話を聞いてしょぼんと眉を下げてしまった。困ったように振り返った先では戸部先生も同じような顔をしていたけれど、何度も何度もお引越しをしている先生は確かに一理あるなと頷き、大屋さんにもう数点見てみたい場所があるのでとやんわり申し上げ、その日は“とりあえず第一候補”として学園に帰ることになった。

しとしととまだ降り止む気配がない雨の中、大小4つの傘が動く。

「あーあ、すごくいいところだと思ったのになぁ」

相当あのおうちを気に入ってしまったらしい金吾くんがぷくっと頬を膨らませて傘を回す。少々棘のある言葉にしゅんと肩を落としてしまったしろちゃんを見た戸部先生が金吾くんを窘めたけれど、彼のほっぺは膨らんだまま。

「ごめんねぇ、金吾くん…でも私、もっとおうちを見たほうが良いと思ったんだぁ」

「それは…たしかに、そうですけどぉ…」

「もうよしなさい金吾。三葉のいうことも一理ある。それに今すぐに決めなければいけないわけでもないんだぞ、ゆっくり決めればいいじゃないか」

あちこちで蛙が鳴く田んぼ道を進みながら、拗ねた金吾くんと彼を諌める戸部先生。
温かい2人の背中を眺めながら、私はとぼとぼと歩くしろちゃんの手をぎゅっと握り締めた。

「2人にはわからないから、仕方ないよ」

「…うん」

「見えないし、聞こえないんだもん」

「…うん」

紫陽花色の傘をくるりと回して、どんよりとした空を見上げる。
隣で小さく頷くしろちゃんの顔は、青褪めていた。
…綺麗で広いお部屋の割に、破格な長屋。
中には本当に、気のいい大家さんがいるかもしれない。
だけど、あそこは違った。あそこは、だめ。あの部屋だけは、絶対に。
視えない人にはわからない。
高い天井一面にべったりとついた真っ赤な血、太くて立派な梁からぶら下がる縄とどす黒い人の形をしたモノ、いい具合に艶が出ている大黒柱には無数の引っ掻き傷と真っ赤な手形、どんとした囲炉裏からは焼け焦げた四肢が突き出し、広々とした土間と台所には、のた打ち回って泣き叫ぶ大勢の“元”人間。
そして…許さない、助けて、騙したな…口々に恨み言を叫ぶ大きな塊を背負って、優しそうな笑顔を『貼り付けた』大家さん。

「いいおうち、見つかるといいね」

「…うん」

田んぼに広がる波紋を見つめながら、紫陽花色の傘を回した。

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