春のくしゃみ

徐々に夜明けが早くなり、部屋に吹き込む風に甘い香りが混じり始めたある朝。
枕元に桃色の装束がちょこんと準備してある布団がもこもこと動き、ぴしゅん、と可愛らしく跳ねた。
そのまま続いてくしゅ、ぷちゅん、と2〜3度跳ねた布団がうごうごと蠢いて、たんぽぽの綿毛に似た髪がひょんと飛び出す。
鼻を擦りながら布団から這い出た三葉は、じゅる、と鼻を啜りながら眠気眼を擦り首を傾げる。
いくら春が近いからといってもまだ明け方や夜は冷える。その所為で風邪でも引いたのだろうかと思いながら大きなあくびを漏らした彼女は、とりあえず着替えようと桃色の装束と共に布団に再度引っ込んだ。

井戸で手早く顔を洗い、くのいち長屋の廊下を早足で移動。渡り廊下を通り過ぎたところで速度を落として、食堂へ続く廊下の曲がり角を曲がる。

「おはよ、三葉」

「綾ちゃん、おはよぅ」

そこは暗黙の待ち合わせ場所。特に約束したわけではないけれど、三葉が4年生になってから毎朝、紫たちはそこに立っている。
いつもいの一番に挨拶をしてくる綾部喜八郎にふわんと微笑んだ三葉…しかし次の瞬間、彼女の顔は驚きに染め上げられた。

「わぁ!!三木くんに滝くん、どうしたのぉ?」

「おふぁよ…ひっくしゅん!!」

「はくしゅん!!はくしゅん!!」

ただでさえ大きな瞳をますます大きく見開いて彼女が見つめた先には、整った顔の半分を手拭いで覆った田村三木ヱ門と平滝夜叉丸の姿。
ぐずぐずと鼻を啜りくしゃみを連発して喋れない彼らの変わりなのか、壁に凭れかかっていた浜守一郎が気の毒そうに笑いながら三木ヱ門の肩に手を置いて花粉症だってさ、と呟く。

「花粉症…」

「うん。なんか今朝突然来たらしくってさ、手拭いこれで3枚目なんだ」

「ほぁー…花粉症かぁ…」

「滝くんもねぇ、顔洗ってる時水なのか鼻水なのかわかんなくってぇ」

「わぁ…」

甲斐甲斐しく三木ヱ門に新しい手拭いを差し出す守一郎とは対照的に、他人事だからと呑気に笑うタカ丸。
鼻が詰まっているため息苦しそうな呼吸を繰り返す滝夜叉丸を見上げた三葉が気遣わしそうに大丈夫かと問いかけようとしたその時、彼女の小さな鼻がむずりと疼く。
くしゅっ、と可愛いくしゃみがその場に落ちて、紫たちは一斉に桃色を見た。

「あれ、三葉も花粉症か?」

「ぇいー…くっしゅ!!…ふはー…そうなの、かなぁ?朝もくしゃみで起きちゃったんだぁ」

「わ、三葉ちゃん大丈夫?」

そのままくしゃみ3連発した三葉に、守一郎がまた気の毒そうに眉を下げる。呑気に笑っていたタカ丸も、てれりと垂れた鼻水を見て慌てて懐から手拭いを取り出して拭いてやる。
自分の時とはえらく対応が違う彼をジト目で睨んだ滝夜叉丸も、すぐに気遣わしげな視線を三葉に向けた。

「ぐず…よく見れば目も潤んでるじな…」

「大丈夫か三葉?手拭い貸ずか?っくじゅん!!」

花粉症の辛さを絶賛体験中の滝夜叉丸と三木ヱ門がずるずると鼻を啜りながら声をかけたその時、ずっと無表情で会話に混ざろうとすらしなかった喜八郎が少しだけ眉を顰めて2人の肩を掴んだ。

「ぉわ!?喜八郎どうじた!?」

「な、なっ…くしゅい!!ふぁっ、くしょい!!」

鼻声で驚く滝夜叉丸とくしゃみが止まらなくなったらしい三木ヱ門をそのまま左右にどかして、喜八郎は無言のまま三葉の前に立ち、ぼあっとしている彼女の顔をじっと見る。
暫くそのままだったのだが、ずるる、と鼻を啜った三葉に唐突にやっぱり、と頷いた彼は慣れた手つきで彼女の脇の下に両手を差込み、小さな体を優しく抱き上げる。
そして無言のまますたすたとどこかへ行こうとしたので、タカ丸と守一郎が慌てて声をかけた。

「き、喜八郎?どこ行くんだ?」

「食堂はそっちじゃないよぉ?」

驚いた様子の2人の声にゆっくり振り返った喜八郎は、いつもとなんら変わらない無表情でこてりと首を傾げておやまあ、と呟くと、抱かれても尚ぼあっとしている三葉の額に頬を寄せてから医務室ですが、と淡々と告げた。

「い、医務室?」

「うん。三葉、熱があるから」

「えっ!?そうなの!?」

「はい。挨拶したときになんか変だなとは思ったんですが、やっぱり変でした」

というわけで、医務室いってきまーす。と抑揚なく告げた喜八郎は三葉を抱いたまま足早にその場を去った。
全然わからなかった、花粉症だと思ったと小声で呟きながら顔を見合わせる守一郎とタカ丸の横で、ぐずぐずと鼻を啜りながら赤く腫れた目をした滝夜叉丸と三木ヱ門がちらりと視線を絡ませてそっと笑う。

「あいがわらず、三葉の変化だけには敏いな?」

「全ぐだ。花粉症と風邪の区別がづぐとか、逆に恐ろじい」

自分たちのことを何度花粉症と説明しても『夜中に腹出して寝るから風邪なんか引くんだ』と聞く耳どころか興味さえ持たなかった友人の、対三葉限定の鋭すぎる観察眼と、無表情で隠した焦燥感。
それにしっかりと気付いていた2人は、やんわりと目尻を下げて、仲良くくしゃみを連発した。

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