お洗濯

ふと、おねえちゃん、と呼ばれた気がして、私は目を開けた。見慣れた部屋の天井が良く見えないから、まだ夜なんだろうと思う。

「………しろちゃん?」

声に出して弟を呼んでも、返事はない。空耳かと思ってもう一度布団に潜り込んだけど、なんだか変に落ち着かない。何度も何度も寝返りをうっても、なかなか睡魔は訪れない。

「…眠たい、はずなんだけどなぁ…?」

胸をざわつかせる不安に溜息をひとつ零した私は、あったかい布団から体を起こして部屋を出た。
目指すは2年長屋。弟の顔を見れば安心できるだろうと、その時の私は思った。


裏々山のほうから鍛錬する先輩たちの声が聞こえてくるのに少しだけ笑いながら、私は2年長屋に辿り着いた。灯りも消されてシンとした長屋。2年生たちは、みんないい子に眠っているんだろうなぁ。
なるべく頑張って気配を消して、弟の名札が下がっている部屋の扉を開く。音を立てないようにと気をつけて中を覗き込んで、どくんと心臓が跳ねた。

「…しろ、ちゃん?」

弟の姿が、どこにも見当たらない。
何とか震える手を落ち着かせて扉を閉め、弟がいつもくっついている2年い組の池田三郎次くんのお部屋を覗いてみたけど、そこにもしろちゃんの姿はなかった。
どんどん増してくる不安。
念のためと厠も覗いてみたけどやっぱり弟はいなくて、私はぐるぐる回る頭を何とか働かせて、他に弟が行きそうな場所を考えた。

「……あ、小平太先輩…」

そして、ぽっと浮かんだ明るい笑顔。たまに怖いことがあったり、怖い夢を見た時はお邪魔させてもらっていると恥ずかしそうに話した弟がそこにいることを願い、私は2年長屋から駆け出す。
足音を立てないように廊下を走り、曲がり角を曲がって、3年長屋を過ぎたところで、私は何かにぼふりとぶつかった。
見回りの先生かもしれないと思ったけれど、私がぶつかった何かは土の匂いがする大きな手で私の腕を掴んで、転びそうだった体をぐいと引き寄せてくれた。

「おやまあ三葉、ぶつかってごめんね」

「あ、綾ちゃん…っ」

「…何があったの?」

「しろちゃんがいないの、どこにもいないの、ど、どうしよう…!!」

「四郎兵衛?四郎兵衛ならさっき6年長屋のほうにふらふら歩いていくのを見かけたけど」

紫の装束にしがみ付いて、その安心感に泣きそうになりながらそう言えば、綾ちゃんは首を傾げて6年長屋の方角を指差した。
考えが当たっていたことに安堵の息を吐いて、それでもやっぱり顔を見ないといけない気がしてお礼もそこそこに走り出した私。その衿を、綾ちゃんがそっと抓んだ。

「僕も行く」

「え、でも綾ちゃんお風呂…」

「お風呂は、三葉を6年長屋からくのいち長屋に送り届けた後で行く」

「ほぇ…でもそれだと凄く遠回りになっちゃうよ?」

「夜の散歩だと思えばいいよ。ね?」

ね、と優しく微笑んで手を差し出してくれた綾ちゃん。いつもとっても優しい彼の申し出に私は小さく頷いて、その大きな手を取る。

「綾ちゃん、また夜間鍛錬?」

「あ…僕の手、泥だらけだったね、汚くてごめん…」

「ううん、そんなことないよぅ。綾ちゃんのおてては頑張り屋さんのおててだもん。とってもかっこよくて素敵だと思うなぁ」

「三葉………ありがと」

愛用の踏鋤の踏子ちゃんをひょこひょこと動かした綾ちゃんは、そう言ってはにかむ。
いつも留先輩や滝くんは綾ちゃんが穴を掘ると凄く怒るから、頑張り屋さんだって褒められて嬉しいんだなぁ、きっと。
そんな話をしながら辿り着いた6年長屋。ここでは多分どんなに私が気配を消してもすぐばれちゃうから、そのままとことこと小平太先輩のお部屋に近付いて素直にこんこんと扉を叩く。
すると、小平太先輩のお部屋じゃなくて、その隣の仙蔵先輩のお部屋の扉がガラッと開いた。

「どうした三葉?、と喜八郎も。小平太と長次ならば今日は文次郎と共に夜間鍛錬に出ていておらんぞ?」

その一言で、私は綾ちゃんの手をぎゅっと握り締めた。

「し、しろちゃんを…見ませんでしたか…?」

「四郎兵衛?ああ、あいつなら先程小平太を尋ねてきて……しまった、私としたことが!!」

突然震え始めた私を見て、深緑の装束をばさりとかぶせてくれた仙蔵先輩は、次の瞬間ハッとしてぎろりと長屋の一番端を睨んで唸った。

「四郎兵衛は多分すぐ傍の池にいる!!お前たちは先にそこへ向かえ!!」

「はいっ!!」

「おやまあ、立花先輩は?」

「私はアホ共を叩き起こしてからすぐ行く!!急げ!!」

仙蔵先輩の言葉で大体の事情を察した私は、綾ちゃんの手を引いて6年長屋のすぐ近くにある小さな池に向かって走った。全速力のつもりだったんだけど、途中で綾ちゃんにひょいと抱きかかえられちゃった。

池に近付くにつれ、ぴちゃ、ぴちゃ、と微かな水音が聞こえる。それが次第に大きくなり、どぷん、と一際大きな音がなった時、私たちは池に辿り着いた。

「しろちゃんっ!!」

そこで目にしたものは、ベタベタに濡れている桃色の装束を肩に羽織り、今にも池に沈みそうになっている弟の姿。
真っ青になって手を伸ばした私よりも早く、綾ちゃんが池に飛び込んでしろちゃんの小さな体を抱きかかえる。じたばたと暴れる弟を有無を言わせぬ力で池から引きずり出した綾ちゃんは、羽織っている桃色の装束を忌々しげに脱がせて地面に叩き付けた。
途端にくたりと手足を投げ出した弟に駆け寄り、すっかり冷えてしまったその体を抱き締める。ああ、間に合ってよかった…!!

「三葉!!喜八郎!!大丈夫か!?」

そこに飛んできたのは仙蔵先輩と、びっくりした顔の留先輩と伊作先輩。

「おわっ、何だどうした!!」

「三葉ちゃん、一体何が…!!」

大慌てでしろちゃんに駆け寄ろうとした2人を、仙蔵先輩が鬼の形相で止める。

「喜八郎、お前どうせこれから風呂に行くのだろう。四郎兵衛もついでに入れて来い」

「…はーい」

静かな声で綾ちゃんにそう言った仙蔵先輩。綾ちゃんも素直に頷いて、気を失っている弟を抱いてお風呂のほうへと歩いていった。
肌に突き刺さるぴりぴりした空気。どうやら物凄く怒っているらしい仙蔵先輩をどうやって宥めようかと思っておろおろしていたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。

「……いや、すまん。説明していなかった私も悪いな」

「はぅぅ…私もまさか、こんなことになるなんて…」

私と仙蔵先輩のやりとりに、伊作先輩と留先輩は首を傾げている。そう、この2人は知らない。だから、これは本当にただの不運な偶然。

「あのぅ、伊作先輩と留先輩、お出掛けされてましたよねぇ?」

「え?ああ、うん。ちょっと忍務で…学園に戻ってきたのは2刻ほど前だよ」

「やっぱり…学園に戻られてから、お洗濯しましたよねぇ?」

「ああ、伊作が帰り道で躓いて転んでドブに突っ込んで俺も巻き込まれてエライことになったからな、装束を洗ったぞ。しかしなんで三葉がそれを知ってんだ?」

留先輩が不思議そうな顔でそう答えたので、私は仙蔵先輩と顔を見合わせて、しょぼんと俯く。

「あの…しろちゃん、ダメなんです…」

「え?三葉ちゃん、ダメって…?」

「夜のお洗濯物、しろちゃん、呼ばれちゃうんですぅ…」

「三葉…とんでもなく可愛いが、すまん、よくわからん」

ますます頭の上にクエスチョンマークを浮かべてしまった2人の先輩になんと説明したらいいのかを考えていたら、仙蔵先輩が大きな溜息を吐いて一歩前に出た。

「よく聞けアホーズ。ひとつ。三葉の弟の四郎兵衛は陰の気が強いので水モノに弱い。同じ学級の者よりも漁師の息子である池田三郎次にくっついていたり、お前たちも知っているだろう」

仙蔵先輩のお話にこくりと頷いた2人の先輩は、黙って話の続きを待つ。

「ひとつ。お前たち、夜に洗濯物を干すなと聞いたことはないか?」

「あ、僕ある。おばあちゃんが昔言ってた」

「俺も、実家でそういやかーちゃんが言ってたな」

「それを聞いていて洗濯したのか…いいか、夜に洗濯物を干すなというのは何も乾きにくいからというだけではない。夜に干している着物には幽霊が張り付くといわれている。それを着ると人格を乗っ取られるらしい。また一説には夜に干した洗濯物に姑獲鳥(うぶめ)が血をつけ印とし、その衣類の持ち主をとり殺すという言い伝えもある。それになにより夜に干す着物は…」

そこで一旦区切られた言葉に、先輩2人がごくりと喉を鳴らした。

「死者の着物だ」

「……マジでか」

「え、ちょっ、じゃあつまり、僕たちが夜に洗濯物を干したそれに何らかのそのー…良くないものが集まっちゃって、四郎兵衛はそれに呼ばれて今に至るって…そういうこと、なの、かな?」

仙蔵先輩のお話を聞いた伊作先輩は、まるでからくり人形のように硬い動きで聞いてきた。だから私は素直に、大体あってます、と頷いた。

「最悪の事態にはなりませんでしたけど、やっぱりお洗濯は昼間のあったかいうちにしたほうがいいと思いますよ」

変なモノが憑いてもいやですもんねぇ、と苦笑したら、伊作先輩と留先輩はめそめそと泣きだしてしまった。
あわわ、別に怒ってないですよぉ?

−−−−−−−−−−−−−−−
四郎兵衛か喜八郎との絡み…だったのですが欲張って出したらしろちゃんが喋ってない罠。どうしてこうなった。
夜柄様、リクエストありがとうございました


[ 80/118 ]

[*prev] [next#]