かがみ

まだ夜明け前の5年長屋の一角に、ベキッ、と小さな音が響いた。
それと同時に聞こえた同室の「あちゃー」という声に、暖かなまどろみに身を任せていた兵助はぱちりと目を開ける。

「ん…勘ちゃん、どうしたのだ…?」

ゆっくりと上半身だけを起こして問い掛ければ、既に忍装束を纏っていた同室の尾浜勘右衛門は申し訳なさそうに眉を下げて頬を掻く。

「あー…ごめん兵助、うるさくしちゃって…」

「それは別に構わないのだ。っていうか、時間まだいいの?」

寝起きだと言うのにすっかりいつも通りの兵助の言葉に、勘右衛門はハッとして慌て出す。夜明け前だと言うのに彼だけが忍装束に着替えているのは、5年い組の学級委員長である彼と5年ろ組の学級委員長である鉢屋三郎が寅の刻から少し遠くの町へ出かけるから。それを前日に聞かされていた兵助は、三郎は遅れるとうるさいもんな、と呟いて頬杖をついた。

「うわわわ、ちょ、待って、ど、うわうわ…」

「勘ちゃん、落ち着くのだ」

「鏡、ちょ、どどどど」

「鏡?」

あたふたと大慌ての勘右衛門が呟いた一言に、兵助はきょとんと目を瞬かせた。

「か、鏡、俺今踏んで、割っちゃったんだよ」

どもりながらも状況を説明した勘右衛門は床に落ちてひび割れた鏡に手を伸ばす。その際に見えた彼の後頭部でグチャグチャに結ばれた頭巾を見た兵助は、小さな笑みを零して布団から這い出た。

「いいよ、俺がやっとくから。三郎待ってるんだろ?」

伸ばされた勘右衛門の手を掴みそう言えば、くりくりの瞳を大きく見開いた彼は今にも泣きそうな声で兵助の名を呼びしがみ付く。

「心の友よっ!!」

「そういうのいいから早く行きなよ。鏡割れてるしここでゴタゴタすると危ない」

「わあ、兵助ったら起き抜けなのに冷静ね…ごめん、じゃあ頼んでもいい?それ捨ててくれればいいから」

「わかったのだ」

兵助が頷いたのを見届けると、勘右衛門は、帰りに時間あったらお土産買ってくるね、と言い残して部屋を飛び出していった。
学級委員長の彼は割としっかりしているのに、自分の前でだけはたまにおっちょこちょいなのだ、と心の中で呟いた兵助はとりあえず床に落ちている鏡を一瞥し、授業が終わったら片付けようと考えてもう一度布団に潜り込んだ。




−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そしてその日の放課後。
授業が終わって、委員会活動の前に鏡を片付けようと自室に戻った兵助は、改めて惨状を確認。
勘右衛門がいつも使っていた鏡は、木枠にもところどころ傷が目立ち、鏡面は無残にひび割れていた。
新品ならともかく、これなら諦めもつくなと思いながらそれを拾い上げ、怪我をしないように注意しながら破片を丁寧に拾っていく。
それをさあ捨てに行こうとした彼は何か包むものをと探したが、生憎部屋にはお手ごろなものが見当たらない。手拭いで包もうかとも考えたが、それはそれで後々破片が残っていたら危険だしと却下。

「…まあ、いいか。俺が気をつければ大丈夫だよな」

仕方なくそう1人ごちて、彼は部屋を後にした。
そしてゴミ捨て場に向かって廊下を歩いていると、正面から黒い装束が歩いてくる。なんとなく嫌な予感を感じて、それでもぺこりと会釈をすれば、彼に気付いた黒い装束は丁度良かったとばかりに彼を呼び止め、手に持っていたものを渡す。

「兵助、丁度良かった。今呼びに行こうと思っていたんだ。今日の委員会なんだけどな、試作の宝禄火矢の実験をしたいんだ。在庫確認は昨日したばかりだから、タカ丸と三郎次と伊助には委員会はなしと伝えてある。先に硝煙倉に行って準備しておいてくれ」

息継ぎもなしにそう言われてしまえば、兵助は口を挟めない。仕方なしにわかりましたとだけ答えれば、土井先生は片手をあげて忙しそうに走り去ってしまった。
ほんの少し困ったが、まあ捨てるのは委員会のあとでもいいかと思い直し、彼はゴミ捨て場へ向けていた足を硝煙倉に向けた。

渡された鍵で、硝煙倉の重たい扉を開く。相変わらず寒くて暗い倉の中…そういえば1人でくるのは随分久し振りだなとなんとなく思った兵助は、火薬壷が並べられている棚に割れた鏡を置き、土井先生の言っていた試作の宝禄火矢を探す。

「しまった…保管場所も聞いてないのだ…」

なんとなくそう呟いて、先生が物を置きそうな場所を見ていく。
その時、彼の背筋を薄ら寒いものがべろりと舐めた。

「誰だ」

さすが5年生ともなると、驚く前に警戒態勢に入る。鋭い声で背後を振り返った兵助は感覚を研ぎ澄ませて気配を探るが、誰も、何もない。
一瞬土井先生かとも思ったが、それにしてはなんだか、おかしい。
眉を顰めて周囲を伺った彼は、静まり返る空間に小さな耳鳴りを聞いた。
ふぃん、と不快な音。それで不穏な気配の原因を察した兵助はいつもの通りに気になる場所を探す。いつもはその気になる場所を見つめれば、耳鳴りは消えるから。
しかし硝煙倉に視線を這わせた兵助は、次の瞬間ぞっとした。
床、天井、壁、棚、火薬壷…ありとあらゆる場所が気になるのだ。しかも、全身が粟立つような感覚がどんどんと強くなってくる。気付けば耳鳴りも大きくなっていた。
今までにない感覚と、三半規管がおかしくなりそうなほどの耳鳴り…初めて感じた“恐怖”に、兵助はたまらず耳を塞ぐ。
ふらふらと恐れをなして後退する足が何かに躓き、彼はそのままドシンと尻餅をついた。

「ひっ…!!!」

視界に飛び込んだ、棚に生じている影。見慣れているはずのそれらには、見慣れない目がいくつもいくつも浮かんでいた。思わず漏らした悲鳴に反応するかのように、影に浮かんだ目がぎょろりと動き兵助を捉える。
ありえない。何だコレは。
頭の中で冷静な自分が叫ぶ。
コレは現実なのか。
頭の中で冷静な自分が問い掛けてくるが、ばくばくと激しく血流を全身に巡らせ今にも鼓膜を突き破ってしまいそうな鼓動がコレは現実だと訴えている。
どこかから聞こえた逃げろという声に従いたいが、それとは裏腹に全然動かない足。
現実感のない現実から目を逸らしたくて兵助が瞳を覆いかけた、その瞬間。

「「いけいけ、どんどぉん!!」」

「どんどーん」

可愛らしい掛け声がふたつと、起伏のない掛け声がひとつ、彼の耳に飛び込んだ。
あまりにも突然なそれに驚いて目を見開いた兵助の視界に飛び込んできたのは、太陽を背負った可愛い後輩たちの姿。

「三葉、時友四郎兵衛、それに、綾部喜八郎…」

「兵助先輩、大丈夫でしたかぁ?」

「なんだなぁ」

「お前たち、なんで…」

あっけに取られた兵助に駆け寄った三葉と四郎兵衛は何かを確認するかのように硝煙倉の中を見回し、ほにゃりと笑った。

「えへへ、しろちゃんと小平太先輩ごっこしてたんですよぅ。“たまたま”硝煙倉の前を通りかかったら兵助先輩がいたので、びっくりさせちゃおうと思いまして」

「驚きましたかぁ?」

にこにこと笑いながら、2人は座り込んでいる兵助の手を引いて起き上がらせる。その手の暖かさに、心音が徐々に落ち着きを見せ始めた。

「…そか、…うん、驚いたのだ」

気付かず凝り固まっていた表情を笑みの形に動かして、兵助は柔らかそうなふわふわを交互に撫でる。どことなくホッとした面持ちの2人が顔を見合わせて笑い合ったことは見なかったふりをして、彼は硝煙倉の出入り口から動かない喜八郎にも声を掛けようと思い視線を向け、そして、ごくりと息を呑んだ。

「………綾、部…?」

「豆腐先輩」

「久々知だ」

「おやまあそうでした。豆腐先輩、あのですね…」

どこまでもマイペースな穴掘り小僧に冷静なツッコミを投げたが、兵助は無意識に胸を押さえる。

「鏡はですね」

感情の起伏を感じさせない声で、喜八郎は懐から取り出した派手な柄の手拭いを

「上を向けて置いちゃダメですよ」

ぱさりと、棚に無造作に置かれていた割れた鏡に被せた。

先程の恐怖が、ざわりと背筋を駆け抜ける。その衝撃で硬直してしまった兵助に心配そうに寄り添う三葉と四郎兵衛…そこにやっと現れた土井先生は、珍しい組み合わせに驚く。

「なんだなんだ、随分と珍しい面子だな?」

「おやまあ土井先生こんにちは。それでは僕らはさよーならー」

土井先生と入れ違うように、喜八郎は兵助から三葉を引き剥がし、四郎兵衛の手を引いて硝煙倉からさっさと退散。
首を傾げた土井先生は、遅くなってしまったことを兵助に侘びて、その顔色の悪さにぎょっとした。

「お、おい兵助、大丈夫か?顔が真っ青だぞ?」

保健室に行くかと問い掛ける土井先生にのろのろと顔を向けた兵助は、力のない声で彼に、あの、と問い掛ける。

「土井先生…鏡、って、上向けて置いたらいけないんですか…?」

「鏡?」

鸚鵡返しのような土井先生の声に、恐る恐る棚に置かれた派手な柄の手拭いを指し示す。それを見て、この手拭いは滝夜叉丸のか?と苦笑した彼は、その下に隠されていた鏡を見て、ああ、と頷いた。

「何だ、割れてしまったのか、怪我しないうちに捨てるんだぞ。しかしその話は誰から聞いたんだ?」

「今、綾部が…」

「ああ、綾部は作法委員会だからな。うん、鏡は上を向けて置いてはいけない。誤って踏んだら危ないし、埃が積もったりすると鏡がくもる原因になるからな」

笑顔でそう言った半助に、なんだそういうことかと安堵の息を吐いた兵助は、ああそういえば、と続いた土井先生の声に顔を上げる。

「いやな、うちのクラスに山伏の息子がいるだろう。あの子が以前ちょっと話していたんだよ。鏡を上向けて置いておくと“よくない通り道”ができるって」

まあ迷信だろうけどなあ、と明るく笑った土井先生の声は、青褪めた兵助には届かなかった。


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