涙の鈴
ある新月の夜。
忍術学園から少し離れたところに位置する集落の、一軒の古い家の前。
学園長先生恒例の迷惑な思い付きにより職業体験を言い渡された4年生の綾部喜八郎と時友三葉は、引率である6年生の善法寺伊作と共にごくりと息を呑んだ。
「な…なんか、棲んでそうな家だね…」
「三葉、大丈夫?」
「う、うん…」
喜八郎の気遣わしげな視線を受けた三葉は何かを確認するかのように周囲をきょろきょろと見渡してから、懐に手を入れて、学園を出る前に学園長先生から渡された一通の手紙を取り出し、かさりと開く。
「えーっと…『職業体験指令書。4年い組綾部喜八郎、4年は組時友三葉は学園北方面にある集落の最奥に住まう某城仕えを引退した某人物にお茶作りの極意を教わり体験してくるようここに命ずる。忍術学園学園長大川平次渦正』…お茶、作り…」
手紙を音読した三葉が手紙の内容の一部分をぽつりと繰り返せば、喜八郎は短く舌打ちを漏らし、伊作はころころと笑い始めた。
「あはは、こりゃ滝夜叉丸と斉藤が団子作り体験で三木ヱ門と守一郎があんこ作り体験とかかな?」
呑気な物言いに喜八郎はますます不機嫌そうに眉間に皺を寄せたが、三葉は小さく噴き出して、そうかもしれませんねぇ、と笑った。
なんとなくほのぼのとした空気が醸し出されたが、面白くないのは喜八郎。いつもの無表情はどこへやら、不愉快を前面に押し出した膨れっ面で伊作と三葉の間にむりむりと押し入った彼は木目の隙間が目立つ立て付けの悪そうな扉を遠慮なしにゴンゴンと叩いて声を掛けた。
「こんばんは。職業体験に来ました綾部ですがー」
ゴンゴン、ゴンゴンと扉を叩く喜八郎の隣で慌てて姿勢を正した三葉と、ちょっとだけ残念そうに眉を下げた伊作。
気を取り直して職業体験を、と思った3人だった。だが、喜八郎が何度も何度も扉を叩いても、いつまでたっても中から応答がない。
ひょっとして約束を忘れて寝ているのだろうかと喜八郎が扉に手を掛けると、ガゴゴ、と重たそうな音を立てて扉が開いた。
音とは真逆の抵抗に違和感を覚えた喜八郎がピクリと凛々しい眉を動かしたが、それと同時に三葉の耳に、りぃん、という小さな鈴の音が聞こえる。
侵入者対策の鳴子かと思い警戒した三葉だが、罠には人一倍敏感なはずの喜八郎が頭上と足元だけを警戒しているのを見て、彼女はおや、と首を傾げた。
「三葉ちゃん、どうかしたのかい?」
「あ、いえ、何でもないです」
しかし背後から伊作に声を掛けられ、空耳なのかもと自己完結した彼女はほにゃりとした笑みを浮かべて敷居を跨いだ。
その瞬間再度聞こえた、りぃん、という澄んだ音に、三葉は目を見開いた。
彼女より先に家に上がった喜八郎と、彼女と一緒に敷居を跨いだ伊作もがらんとした家の中を見回して硬直する。
大きなしみが目立つ埃の積もった床、長いこと使われていなさそうなかまど、蜘蛛の巣が張った天井、そして、その天井の梁から部屋の中心に垂らされている、先端が輪になった縄。
風もないのにゆらゆらと不自然に揺れるそれにあわせるように、三葉の耳に響く鈴の音。
「………なに、これ…」
ぽつりと落とされた喜八郎の呟きではっと我に返った伊作が慌てて2人に外に出るよう指示を出し、扉に手を掛ける。だが扉はどんなに力を籠めても開かない。
まるで外から誰かが押さえているような…いや、むしろ閉めた覚えさえない扉が閉まっていることに言いようのない寒気を感じた伊作が後輩2人を背に庇おうと振り返ったその瞬間、家の中に喜八郎の切羽詰った悲鳴が響き渡った。
「三葉!!何してるの!!?」
驚いて振り返った伊作の瞳に、踏鋤を放り出した喜八郎と、梁からぶら下がる縄に手を掛けている三葉の姿が映る。
喜八郎と共に止めようと慌てて駆け寄った伊作は、彼女の桃色の装束に手を掛けたところで、ふと視線を感じて部屋の隅を見た。
りぃん、と一際大きな鈴の音が、3人の耳に届く。
部屋の隅の暗闇から、ドシャリ、と嫌な音がした。
何か柔らかくて重たいものが…そう、ちょうど、腐乱した人間ひとりぶんの重みが、硬い床に落ちるような音。
もがく三葉の腕を掴みながらそこに視線を向けた喜八郎がさぁっと青褪め、伊作の喉からひぃっと情けない悲鳴が漏れる。
暗闇の中で確実に蠢いているそれがひん曲がった腕を彼らに向かって伸ばし、何かを呻いたとき、まるで共鳴するように三葉が唇を戦慄かせた。
『…すず……』
悲しみに彩られた、悲痛な声。
彼女の声とは明らかに違うその音に顔を見合わせた2人は、鸚鵡返しのように彼女の言葉を繰り返した。すると、蠢くものが曲がりくねった四肢をゆっくりと動かし、べちょりと這いずる。
『…すず…はりの……おねが…い…』
震える声を聞いた伊作が、はっとしたように飛び上がって梁に上がる。丁度縄が括りつけられているところにきらりと鈍く光るものを見つけた彼は、それを拾って蠢くものに向かって投げつけた。
りぃん、り、りん、と澄んだ音を響かせて床を転がる鈴。それを追いかけるように暗闇から飛び出したものはべちゃべちゃと耳障りな音をさせながら床を這いずり、鈴と共に土間に落ちて、その姿を消した。
静けさを取り戻した家の中で喜八郎が長く息を吐くと、彼に支えられていた三葉がどてりとその場に尻餅をつく。
慌てて立ち上がらせた喜八郎と、梁から転げ落ちるように降りてきた伊作が、揃ってぎょっとする。
「ひっく、ひっく、うぇぇぇ…」
三葉は、大きな瞳からぼろぼろと涙を流していた。
突然のことに右往左往してしまった2人だが、とりあえず外に出ようと彼女を支えながら重たい扉に手を掛けた。少々滑りは悪いがちゃんと開いた扉に安堵した伊作が一歩外に出ると、暗闇にぼんやりと浮かぶ明かりがひとつ。
「あんれま、あんたたちこんな空き家でなにやっとるかね」
その灯りのすぐ傍に浮かび上がった老婆に少々驚いたものの、要所を誤魔化した彼がお使いで訪ねてきたことを告げれば、老婆は訝しげな顔をしたものの泣いている三葉を見てしわくちゃの顔を悲しそうに歪めた。
「お嬢ちゃん…あんた視える子かね」
老婆のしゃがれた声にひくりと肩を震わせた三葉がこくりと素直に頷けば、老婆は懐から手拭いを取り出し彼女の涙を拭いながら、小さな声で話し始める。
「ワシゃね、長いことここに住んどる。もう何十年前になるんだか…ここにゃ仲のいい若い夫婦がすんどった。毎日夕方になると手を繋いで散歩してなあ…嫁のほうがいつも持ち歩いとる鈴の音が、畑仕事の終わりの合図だったよぉ」
「鈴…」
「きれーな、澄んだ音がする鈴さね。だけんど、ある日この近くで戦があって、旦那が徴兵されてしまった。まんだ子供もおらんかった嫁はワシらと一緒に避難したんだが、毎日毎日旦那のことを心配して泣き暮れとった」
老婆はそこまで話すと、何かを思い出すように瞳を閉じる。
「そんでなぁ、長い長い戦が終わってもなぁ、旦那は帰ってこんかったんよ。嫁はまだ若かったし、器量もよかったからくにに帰って新しい嫁ぎ先でも見つけろと何度も何度も言ったんじゃ。けんど、嫁は頑なに首を縦には振らんかった。あのひとがいい、あのひと以外はいやじゃと」
そして、ゆっくりと目を開けて、老婆は三葉の目を見た。
「そんでなぁ、嫁は、この家で首を吊って死んだ。悲惨なことになあ、それを見つけたんは、戦で負った怪我の療養を終えてやっとこさ嫁の元に戻ってきた、旦那じゃったんよ…梁からぶら下がる嫁さんの変わり果てた姿を見てなぁ、可哀想に旦那はおかしくなってしもうた…刃物振り回して、あん時はそりゃあ大変じゃった…最期はこの家で自ら命を絶ったが…そうか、あん夫婦はまだ、ここに、おるんか…」
最後に小さく呟き泣き出した老婆。
あの蠢くものはお互い愛する者を探して彷徨う夫婦の怨念で、敏感な三葉は彼らの心情に影響されて泣いていたのかと納得した伊作と喜八郎は老婆にお礼を言うと、ようやく泣き止んだ三葉を連れて学園へと戻った。
泣き疲れて少し眠たそうな三葉を喜八郎に任せた伊作が報告のために学園長の庵を訪れ、ついでに指令書の間違いを指摘すると、彼の話を黙って聞いていた学園長先生は立派な眉毛を片方だけ持ち上げ、鋭い瞳で伊作を睨む。
「北の集落に、引退OBがおらんかった、とな?」
「ええ、指示通りここより北の集落は空き家も多く、指令書のOBは…」
「善法寺伊作、それはおかしいぞ。わしはこの職業体験を思いついた時に自ら足を運んで頼んだのじゃ。それに、彼の住む集落は割と大きめの栄えた場所のはずじゃが…お主、まさか…」
場所を間違えたのではあるまいな、と言われ、伊作は慌てて学園長先生の目の前に広げられた地図に目を落とし、自分たちが訪れた集落の場所を指差した。
「まさか、いくらなんでも…!!事前に指示されたとおり、僕らはちゃんとここに…」
「………場所は近いが、わしが指示したのはこっちの集落じゃ。それにの、そこはもう『跡地』じゃよ善法寺伊作」
「あと、ち…?」
地図を指差す伊作の手が、ぶるりと震えだす。
「もう何十年も前にな、その集落はなくなっとる。何でも戦に徴兵されて恐怖のあまり錯乱したひとりの男が村人を皆殺しにしたらしいぞ?」
「みな、ごろし…?」
「ああ、痛ましい事件じゃった…赤子も老人も、ひとり残らずのぉ…」
「ひとり、残ら、ず…?」
「そうじゃ。稀に見る凄惨な光景だったわい…」
学園長の言葉を繰り返す伊作の耳に、りん、と鈴の音が鳴り響いた。
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老婆の話と食い違う学園長の話、原因不明の鈴の音。三葉は一体どうしてあんなに泣いていたのでしょうね。
という疑問が残るお話に挑戦してみましたが玉砕した感じ満載です。
月猫様、リクエストありがとうございました
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