子供体温

それは予算会議が近い、ある秋の日。
予算会議(と書いて合戦と読む)のために連日徹夜徹夜の会計委員会だが、とうとう下級生全員が倒れてしまい、2人でどうしろっちゅーんじゃ、とぼやいていた潮江先輩の言葉を聞いた仙蔵先輩に『恩を売ってこい』と指示された私は、とことこと会計室を目指していた。

「失礼しまーす、三木くん、いますかぁ?」

こんこん、と軽く扉を叩いてそう声を掛け中に入ると、そこにはいつも以上にすごい隈の潮江先輩と頭を前後に振っている三木くんが鬼気迫った顔で睨んできた。

「…何の用だ……」

バチバチバチとすごい勢いで算盤を弾きながら、まるで地獄の底から響いてきたような潮江先輩の声にちょっと怯んだけれど、私は負けないようにぎゅっと手を握って、お手伝いに来ました、と告げた。
するとふらふらふらふら、今にも倒れそうだった三木くんの目が突然輝いて、転がる勢いで私に近付きぎゅっと手を握ってぼろぼろと涙を零し始めた。

「あぁぁぁありがとう!!きのこ、きのこがぁぁぁ!!」

「み、三木くん…大丈夫…?」

「神の助けだァァァ!!これで大根は空を飛べるよぉぉぉ!!!」

「え?なに?それどういう意味なの?」

盛大に泣きながらしがみついてきた三木くんの頭を何度か撫でてあげると、三木くんは突然意味がわからない言葉を叫んでその場に崩れ落ちる。
突然どうしちゃったのかと慌てて起こすと、三木くんは穏やかに眠っていた。

「チッ…どいつもこいつも鍛錬が足りん!!三葉、さっさと手伝え!!」

「あ、はい。でも三木くんはどうしましょう?」

「そこらへんに転がしておけィ!!」

まるで吐き捨てるように怒鳴った潮江先輩はちょっと怖かったけど、私はうんしょうんしょと三木くんの体を引き摺って、会計室の隅っこにころりと転がして早速渡された作法委員会の帳簿計算に取り掛かった。


私はこう見えて、結構計算は得意なほうなんだよ。
そんなことを考えながらも、しっかりと集中してぱちぱちと算盤を弾いていたら、あっという間に日が暮れていて肌寒いくらいの風が吹き込んできた。
きりのいいところで潮江先輩と夕食を取りに行って、食べ終わった後はまた会計室で帳簿計算。途中伊作先輩や鉢屋先輩が差し入れを持ってきてくれたけど、潮江先輩に追い返されてた。
そしてどれくらい経った頃だろう。突然会計室に、私でも潮江先輩でもない算盤の音が響き始めたのは。
ばち、ばち、じゃらり、と不気味な音が耳について顔を上げると、正面に座っていた潮江先輩も同じように顔を上げていた。
しかしその表情は鬼も裸足で逃げ出しそうな怒りに満ち満ちている。

「…まぁた出やがったな」

忌々しげなその呟きに、私の背筋に悪寒が走る。噂に聞いていた会計室の算盤小僧のせいじゃなくて、目の前のまさに地獄の鬼の呟きに、だけどね。

「また、出るようになったんですか?」

私はおっかなびっくり、潮江先輩にそう問い掛けた。前に一度、潮江先輩が会計室に毎晩のように出ていた算盤小僧を祓ったことがある、というのは噂で聞いたけれど、ひょっとしてまた出てきたのだろうか?

「まあな。全く懲りん奴だ!!」

そう言って立ち上がった潮江先輩は、ぎっと部屋の隅を睨んだ。寒いくらいの気温なのに、変な汗がぶわっと浮かぶ。今の潮江先輩はどこかの委員会の帳簿計算が合わない上に、連日の徹夜続きで相当気が立っている。算盤小僧さん早く逃げて、と思ったがしかし、私の祈りは届かなかった。

「毎晩毎晩喧しいんじゃあァ!!!」

ごきん、と物凄い痛々しい音。止める間もなく、潮江先輩は姿を現した算盤小僧の顔面に目にも止まらぬスピードで愛用の10kg算盤を叩きつけていた。
ひぎぃ、と言う悲鳴と共に姿を消した算盤小僧さんに同情を隠し得ないが、今可哀想ですよ、なんて言ったら私も同じ目に遭いかねない。

あー、くそ、さすがに限界か…とぼやいた潮江先輩を黙って眺めていたが、もうこれ以上はきっと本当に鬼になってしまうと危機感を抱いて、私は静かに立ち上がり、潮江先輩に近付いて

ぽすん


と、彼の胡坐の上に腰掛けた。

「………何をしとるんだ、三葉」

「えへへ、ちょっと休憩です」

潮江先輩の鍛えられた胸板にもたれて、先輩の顔を見上げながらそう笑うと、潮江先輩はきょとんとした後に、私のお腹に逞しい腕を回してきた。

「……あー、くそ、あったけぇ…」

遠慮がちに私の頭に顎を乗せてきた潮江先輩の呟きを聞いて、私はこっそりと笑う。以前、4年生の皆に子供体温だと言われた。寒くなってきたら三葉を抱っこすれば安眠できそうだねと綾ちゃんが言っていたので、それを実行してみた。
ここまでうまくいくとは思わなかったけど、潮江先輩はぎゅうぎゅうと私を背後から抱き締めたまま、あっという間にうつらうつらとし始めた。
良かった、先輩が鬼になる前に人に戻せそう、と思っていたら、ふわぁぁと大きなあくびが零れる。
人肌というのはいくつになっても安心して眠りを誘うものなんだなぁ、なんて考えながら、私も潮江先輩の装束をぎゅっと握って眠りに落ちてしまった。



翌日、潮江先輩の活動範囲には夥しい量の蛸壺が掘られていたらしい。
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今度こそ本物を抱っこですよ(笑)
匿名希望様、リクエストありがとうございました



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