鯨と彼女

楽しい臨海学校もあっという間に明日でお仕舞い。最終日ということもあって、明日は鯨漁に連れて行ってくれることになった私は、4年生に宛がわれた水軍館の一室に急遽拵えられた(くノ一教室の子が参加するのは初めてだったため、白南風丸さんが作ってくれた)衝立で区切られた一角に布団を敷きながら、ふんふんと鼻歌を歌っていた。

「三葉ちゃん、ご機嫌だねぇ」

「えへへ、だってタカ丸さん、くじらさんですよ!!大きいんですよ!!」

「海に落ちて丸呑みにされないように気をつけろよ、三葉」

「はぅあ!!?それは怖い…三木くんの意地悪…」

思い出が作れたと嬉しそうなタカ丸さんにくじらの大きさを力説していると、衝立からひょこりと顔を出した三木くんがニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて怖いことを言うので、ぷぅと頬を膨らませて彼を睨んだ。

「ははは、そんな顔しても、怖くないぞ」

「むぅぅ〜!!学園に戻ったらユリコちゃん誘拐してやる…」

「非力な三葉にできるわけないだろ」

「綾ちゃんに頼むからできるもん!!」

「絶対やめろよ喜八郎!!」

「おやまあ、三葉の頼みならえんやこら」

「やめろ!!」

悔し紛れにユリコちゃん誘拐宣言をして、綾ちゃんの助力も得たところで、青褪める三木くんを眺め溜飲を下げる。わいわいとにわかに騒ぎ始めたその時、滝くんがぱんぱんと手を打ち鳴らした。

「こら、いつまでも騒ぐな。そろそろ寝るぞ」

まるでお母さんみたいなその言い方に、ちょっと笑えたけれど、私たちは素直に返事をして各々布団に潜り込み、日中の疲れもあってか早々に眠りに落ちた。




ふわふわと、まるで海を漂っているような感覚。
あたり一面深い青の光景に、私は首を傾げる。
そこに、もわりと大きな黒い塊が現れて、私はぽかりと口を開けたまま固まった。

『くじらさんの親子だ…』

ぽつりと呟くと、黒い塊は徐々にその姿をはっきりとさせた。だがしかし、現れた鯨の親子は不思議なことに、揃ってきっちりとした紋付の着物を纏っていた。

『突然すみません。私たちは明日、熊野参りに行くためこの近くの沖を通りますが、どうか見逃していただけないでしょうか?』

礼儀正しくぺこりと頭を下げる鯨の親子にそう言われ、私も同じようにぺこりと頭を下げた。

『それはそれは…では兵庫水軍さんたちにお願いしてみます』

違和感しかないこの空間と光景に少しも違和感を感じないまま、私は鯨の親子にそう言った。すると、鯨の親子は嬉しそうにありがとうございますと、これまた丁寧に頭を下げて、もわもわとその姿を消していった。



ばちりと、弾かれたように目が開いた。
そこでやっと、今のは夢かと理解する。

「…そりゃそうだよ、だってくじらさんは大きすぎて着物着れないもんね」

そう呟いたものの、どうしてもはっきりと覚えている夢の内容が気になった私はこっそりと部屋を抜け出し、夜明け前の暗い海へと駆けた。


砂浜では何人かの人影がうろうろしており、漁の準備を進めていた。

「おや?えっと…三葉さんでしたっけ?早いですね」

さくさくと砂に足をとられながらも人影に近付くと、私に気付いた間切さんが声を掛けてきたので、先程見た夢の内容を伝えた。
すると、間切さんは慌てた様子でお頭に伝えてきますとその場から走り去った。
背中を見送ってどうしようかと思案していた私に、同じく漁の準備をしていたらしい網問さんが苦笑しながら話しかけてきた。

「多分お頭の指示待ちになるんで、もう一眠りしてきたらいかがですか?」

そう促され、私は胸に広がる不安を押し込めながら、素直に水軍館に戻った。



しかし眠れるはずもなく、布団の中でごろごろと寝返りを打っていると、にわかに海岸が騒がしくなってきたことに気付き、再度布団から抜け出した。

駆けつけた先の海岸では、兵庫第三共栄丸さんが必死に漁師さんたちを説得しているところらしく、声を荒げつつも今日の鯨漁は危険だと叫んでいた。
だが、漁師たちは聞く耳持たず、それどころか兵庫第三共栄丸さんに腰抜けなどと酷い罵声を浴びせている。
そのうち1人の漁師が山見からの合図に気付き、兵庫第三共栄丸さんの制止を振り切って、ぞろぞろと海へと出て行った。
これはまずいことになったと忙しなく動いている兵庫水軍の傍で心配そうに海を眺めていたら、沖の方に黒いものが見えて、私はハッとした。
その姿は、着物は着ていないものの、夢で見たあの親子鯨にそっくりだったから。

わあわあと、沖の方からけたたましい声が潮風に乗って響いてくる。嫌な胸騒ぎがして、それでも、足はまるで縫い付けられたかのように砂浜から動かない。
どうか何事もありませんように、と願っていたら、朝日が覗いていた空はたちまち曇りだし、ごろごろと雷が轟き始める。
あっという間に波は白い飛沫を上げ始め、それと同時に沖の黒い塊が大きく跳ねた。
黒い塊はいくつかの船を巻き込んで海に沈み、そしてまた現れては同じことを繰り返す。
それをただ眺めているしか出来ない私は、ぐっと拳を握って俯いた。





いくつかの木片が砂浜に流れ着いた頃、悲しそうに沖合いを眺めていた兵庫水軍の人の中から、網問さんが私の隣に並んで、小さく問い掛けてきた。

「鯨の夢、見たんですか?」

「あ、はい。大きなくじらの親子で、今日熊野参りに行くって言ってました…」

ざっと夢の内容を話すと、網問さんはすげぇや、と呟いて、ある話をしてくれた。それは鯨に…というか、海に関わる者なら誰でも知っているくらい有名な話だと、彼は語った。

「昔どこかの村は鯨漁を生業にしていたそうです。その村の長が、ある日三葉さんと同じように鯨の親子から夢でお願いされて、その日は漁をやめたそうです。しかし、所詮夢だと馬鹿にした村人たちは長の制止も振り切って海に出て、夢に出てきた親子鯨を捕獲しようとした…ところが、突然海が荒れ、海と同じように荒れ狂った親鯨にあっという間に船も道具も壊されて、漁に出た人間は誰一人として戻らなかった。そんな話がありまして」

「ほぁ…つまり、私はその言い伝えの…」

「まあ、無きにしも非ずってところですね。海の男は信心深いですから、普通はその話を聞いたら漁になんか出ないんですけど…」

ここいらへんの漁師はそうでもないんですかねぇ、と悲しそうに呟いて、網問さんはそれにしても、とくるりと私を覗き込んだ。

「始めのうちの船幽霊事件もそうですけど、三葉さんは何か不思議な力でもお持ちで?」

「ほぇ?」

「いや、そのー…今まで色んな海を回ってましたけど、船幽霊なんて初めて会いましたし、今回の鯨の夢もそうですし…」

そう言って、ちらちらと私の目を見る網問さん。きっと、この目の色とかも気になっているんだろうなぁとか思いつつも、にこりと笑って首を振った。

「いいえ、ただちょっと、他の人より敏感なだけです」

なるべく感情を表に出さないように、口角を上げる。
そういういわれ方は慣れているつもりだけれど、やはり、きついものはきつい。
くっと微かに唇を噛むと、何故か網問さんは慌てた様子でぶんぶんと両手を振った。

「あ、いえ、違います!!別に悪い意味で言ったわけじゃなくて、その、えっと、そういう力があるなら、素敵だなって…」

最後の方はもにゃもにゃと小さすぎて何を言っているのか聞き取れなかったが、それでも別に悪意はないと懸命に説明してくれる網問さんに、私はちょっとだけ嬉しくなって、ありがとうございます、と微笑んだ。
そっと頭上に翳された大きな掌に、撫でてもらえるのかなと微かに頭を下げたその時、ひょいと私の体が浮いた。

「三葉、朝ごはんだって」

「ふぁっ、綾ちゃん!?」

驚いてぱちぱちと瞬きを繰り返す私の視界一面を染めるのは、柔らかな灰色。
寝起きのためか少し不機嫌そうな声でそう言いながらも、私を担いだままさくさくと砂の上を危なげなく進んで水軍館に向かう綾ちゃんの肩越しに、呆然としている網問さんに小さく手を振った。

「全く、油断も隙もあったもんじゃない」

そう不愉快そうに呟いた綾ちゃんの言葉の意味は、全然わからなかったけれど。


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