平和

医務室で意識を取り戻した私は、体はあちこち痛むものの、瞳以外特に異常が見当たらなかったので、その後自室に戻った。
先輩や後輩、弟たちは、私がどれだけ明るく笑っても、暗い顔をしたまま。


そして、あの本を読んでから七日間。
決して無事とはいえないが、なんとか乗り切った私たちは、久し振りに爽やかな八日目の朝を迎えた。
祟りに怯えることのない日常が、戻ってきた。
私は鳥の囀りで目を覚まし、自分の手をじっと見て、大きく息を吸い込む。

「ほぁ…ちゃんと、生きてる…」

そう呟いて、布団を這い出る。
文机の引き出しを開け、椿の描かれた手鏡を取り出して覗き込む。
そこにはやはり、昨日と同じように、血のように赤い目の私が映っていた。

かたりと机に鏡を置き、私はひとつ、ある決心をして、いつもの装束に着替えた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
食堂に向かう前に、校舎から離れた学園長先生の庵を目指す。
こんな朝早くに失礼とは思いつつも、縁側から部屋の中に声を掛けた。

「がくえんちょーせんせーぇ、おはようございまぁす」

間延びした私の呼び掛けに、障子が音もなく開いてヘムヘムが顔を覗かせる。
その後ろから、学園長先生の優しい声が聞こえた。

「おぉ。三葉か、おはよう。どうしたんじゃ、こんな早くから」

そう言って私を見た学園長先生の、いつもは長い眉毛に隠されている目が、大きく見開かれた。

「い、一体どうしたんじゃその目!!それにおぬし…!!」

「えへヘ…実はそのことで、お話があって参りましたぁ」

「…ともかく入りなさい、話とやらを聞こう」

そう促され、ヘムヘムに手を引かれて、私は学園長先生のお部屋で、昨日までに起こったことを全て話した。



−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−
「…そうじゃったか、そんなことが起こっておったとは…」

「はい、解決はしたんですけれど、私の目はこんななっちゃいましたぁ」

「うーむ…相変わらず軽いというか…のんびりしておるのぉ…」

「だって学園長先生、私の目だけで、先輩たちの命が救えたんですもん」

「…そうか、そうか…三葉、礼を言うぞ…ありがとうのぅ」

しわがれた手で、優しく私の頬を撫でてくれる学園長先生。
その暖かな手を取って、私は本題を切り出した。

「学園長先生、私はもう、忍にはなれません」

「…そうじゃろうな」

「なので、実家へ帰ろうと思いますぅ」

努めて明るく言いながらも、浮かんでくる涙を隠すように、俯く。
寂しい、悲しい、悔しい。そんな感情が綯い交ぜになり、視界がぼやけ出す。
本当は、私だってしろちゃんと同じ忍になりたかった。
そのために4年間、自分なりに一生懸命頑張って学んできた。
こんな目になったことを後悔はしていないけれど、やはり忍になれなくなったという現実は悔しいし、悲しい。
そして、一番悲しいのは…

「良くして頂いた先生や先輩、可愛い後輩、大好きな友人とお別れなのは、とても寂しいですけど…」

この学園で出会えた、大切な人たち。
優しい先生や、頼もしい先輩。その大きな背中を目標に、いつだって頑張った。
可愛い後輩に、慕ってもらえることが、自信に繋がっていた。
辛い時だって、友人たちがいたから、なんだって乗り越えられた。

「…本当に、それでいいのかのぅ?」

柔らかな、何もかも見透かしているような、そんな学園長先生の声に、私は頷けなかった。
堪えていたはずの涙が、畳にぽつんと落ちて小さな跡を残す。

「三葉、なにも学園を卒業したものが皆忍になっているわけではない。それにくのいち教室には行儀見習いの女子もたくさんおるじゃろうて…忍になれないからといって、急いで学園を去ることはないんじゃ」

−−卒業まで、頑張ってみんか?−−

その言葉に、私の涙腺はとうとう決壊してしまった。

「ふぇ、うえぇぇぇん…」

ぼろぼろと堰を切ったように溢れ出す涙。ぐにゃぐにゃに歪んだ視界で見た学園長先生の顔は、とっても優しく微笑んでおられて、ますます感情が高ぶる。

「ふわぁぁぁん!!わた、わたし、っ学園、に…ひっく、いたい、です!!」

「そうかそうか…よしよし…」

「先輩をっ、見送って…みん、なと、卒業っ、した、いぃぃ」

「うんうん…そうしなさい…」

「がぐえんぢょうぜんぜぇぇ、ひぃっく、うぁぁん!!」

「わかったわかった、わかったから、そんなに泣くんじゃない」

しわしわの手で私の小さな手をしっかりと握り、泣き喚く私に少し焦り出した学園長先生。

「ふぇっ、ふぇ、ひっく…」

「そうじゃ、三葉、朝餉は済んだのか?」

その問い掛けに緩く首を振ると、学園長先生はしめた、とばかりに立ち上がり、棚から綺麗な箱を取り出して私に見せた。

「腹減ったじゃろうて、ほれ、菓子をやろうなぁ」

ぱこりと蓋を開け、箱の中からこれまた綺麗な落雁をいくつか取り出し、ヘムヘムが用意した懐紙に包む。

「ほぅれ、甘くてうまいぞぉ。じゃからな、泣き止みなさい、な?」

ヘムヘムと並んでほらほら、と落雁を差し出す学園長先生を、私は零れる涙をごしごしと袖で拭って睨んだ。

「がくえんちょせんせ…ひっく、私、もう4年生だ、もん…」

「ハ!?そういやそうじゃった!!いや、つい…」

「うぅぅぅ〜〜!!!」

低く唸り、まるで孫とそのおじいちゃんのような会話をしていると、庵の外からゴゴゴゴ、と地鳴りのような音が聞こえてきた。
なんだろう、と思っていると、その音はどんどん近付いてきて、庵のすぐ前でぴたりと止まった。
そして聞こえてきたのは

「ここらへんから三葉の泣き声が聞こえた!!」

6年は組、食満留三郎先輩の声だった。

「お、迎えがきたようじゃの」

ホッと安心したような息を吐き、学園長先生がヘムヘムに障子を開けさせると、留三郎先輩は学園長先生にしっかり挨拶した後、私に気が付いた。

「なっ、三葉!!やっぱり泣いていたか!!どうした!!何があった!!」

「朝から騒々しいのぉ…食満留三郎、三葉は朝餉がまだのようじゃ。話は終わったから、連れてってあげなさい」

「あ、はい」

「留先輩、お腹空きましたぁ。食堂まで抱っこして連れてってください」

「抱っこ、して、だと…!!?よしハァハァおいで三葉ハァハァ」

「おぬし、不審者みたいじゃのぉ…」

呆れている学園長先生とヘムヘムに一礼し、私は留三郎先輩にぴょんと跳び付くと、先輩はしっかり私を抱えて食堂に向かって歩き出した。


食堂の手前の廊下で、そうそう、と片手で私を抱え、もう片手で懐を探り、留三郎先輩が何かを差し出した。
留三郎先輩の大きな掌の上に、ちょこんと小さなアヒルさん。

「昨日伊作と作った眼帯だ。左目、見えてねーんだろ?」

つけとけ、と言って渡されたそれは、黒地に牡丹柄のちりめんで作られており、真ん中のところに用具委員会名物アヒルさんボートの船首飾りをモデルにしたらしいワッペンがちょこんと付いていた。

「わぁぁ、かぁわいい…留先輩、ありがとうございます」

「おぅ。伊作にも会ったらしっかり礼言っとけよ」

「はぁーい」

返事をしながらも、いそいそと眼帯をつけてみる。
柔らかなちりめんは肌触りもよく、すぐ馴染んだ。

「どうですか?似合いますか?」

「すっげぇ可愛い、ちょっとマジやばい、三葉超可愛い、ヤバイ」

「食満先輩のほうがかなりヤバいっスよ、顔とか色々犯罪的な意味でも」

ひょい、と急な浮遊感を感じて、私は留三郎先輩の腕の中から誰かに取り上げられた。上を向くと、そこには食堂から出てきたであろう不破先輩と、私を抱きかかえる鉢屋先輩がいた。

「不破先輩、鉢屋先輩、おはよーございます」

「おはよう、三葉ちゃん。その眼帯可愛いね」

笑顔の不破先輩と暢気に挨拶していると、私を抱えたまま鉢屋先輩と留三郎先輩がバチバチと見えない火花を散らし始めた。

「三葉を返せ、鉢屋三郎」

「お断りします」

なんだか面倒臭い事になりそう、そう思った私がきゅるる、と悲鳴を上げたお腹を摩っていると、またもや浮遊感を感じた。

「こんなところで争うな。邪魔だ」

そう涼しく言い放つ仙蔵先輩に、留三郎先輩はぐっと黙り、鉢屋先輩は素直にすみません、と言って廊下の端にいた不破先輩の隣に並んだ。

「仙蔵先輩、おはよーございまーす」

「ああ、おはよう三葉。奥に喜八郎たちがまだいるぞ」

仙蔵先輩がそう言って、私を床に降ろしてくれた。
食堂を覗くと、確かに奥のほうに見慣れた紫色がいたので、私はそこに駆け寄った。
出入り口で留三郎先輩が仙蔵先輩に『この犯罪者めが』と罵られながら往復びんたを食らっていたのは、見て見ぬ振りをしました。


[ 20/118 ]

[*prev] [next#]