変わらない日常

さて、綾部喜八郎と時友三葉の思いが通じ合った翌日。
失恋の痛手に打ちひしがれていた善法寺伊作は、自室に篭って寝込んでいた。

「はぁ…」

部屋にもれるのは重たい溜息ばかりで、流石に今回ばかりは時間に任せるしかないと思った同室の食満留三郎は、優しさから彼を一人にした。

「はぁ…」

ゆっくり流れる時間の中で、喧騒がどこか遠くに聞こえる世界。
たった一つの出来事だというのに、世界が自分を置いて遠くへ行ってしまったような感覚に苛まれていた伊作は、何度も何度も胸の痛みを逃がそうと溜息を吐く。
けれど、ぼんやりするとすぐ愛しい人を思い浮かべてしまい、世界が揺れる。

「…はぁぁ……」

更に重たい溜息を吐き出し、けれど辛い気持ちのやり場がない彼は、布団に包まって気持ちの整理をしていた。
………の、だが。
先ほどから溜息にまるで相槌でも入れるかのように廊下がばたばたと騒がしい。

「はぁ………うるさいなぁ、もう…」

思考をまとめて気持ちを落とし込もうとしているというのに、それを遮るかのようにドタバタドタバタと聞こえてくるので、流石に頭に来たのか、伊作は布団から起き上がって文句をたれる。

「もー、小平太かな。それとも留三郎と文次郎がまた取っ組み合いでもしてるのかな。なんにせようるさいなぁ、こっちは傷心だっていうのに」

ちょっとは気を遣ってくれたっていいじゃないかと頬を膨らませながら布団から這い出た彼は、ついには振動まで響き始めた廊下に続く扉をそっと開き、一体誰が暴れているんだとじっとりした目つきで覗いた。
細く開いた扉の隙間。
その先に見えたものは、不思議なことに黒だった。
一瞬、文次郎か留三郎の後頭部かとも思ったが、それにしてはやけに艶やか。

「え」

一瞬にして悪寒が全身の肌を舐め付け、彼は驚きのあまり声を漏らして身体を逸らせた。
離れたことにより視界が広がり、彼の喉を引き攣らせる。
隙間から見えるのは外の景色ではなかった。
寒気がするくらい真っ白な肌からどろどろと静かに溢れ続けているどす黒い血。関節があちこちあらぬ方向に曲がり、突き抜けた骨が廊下にぶつかり、それが蠢くたびにゴンゴンと異質な音を立てている。
その中でも体と間逆の方向を向いた頭が丁度膝立ちの伊作と同じくらいの位置にあり、ギラギラした真っ黒い目が、薄く開かれた扉の隙間から彼の部屋を覗いていた。
立ち込めた腐敗臭にとっさに口元を手で覆った伊作は、声にならない悲鳴を上げてその場から飛び退いた。
布団に尻餅をつき、そのままの体勢でずるずると後ずさる。
すると、気味の悪い呻き声を上げて廊下で蠢いていたソレが、折れてひん曲がった腕を彼の部屋の扉に掛け、前進し始めたのだ。
今までの経験上ヤバイと感じた伊作は足に絡まっている布団を蹴飛ばし床から天井裏に飛び込み、近年稀に見る迅速な動きで六年長屋から脱出すると、自分が仮病を使って休んだこともすっかり忘れて校舎の4年は組へと全速力で走った…寝巻き姿のままで。



ところ変わって、4年は組の教室では座学が行われていた。
先生が忍たまの友を片手に術の説明をしている最中、突然とんでもない勢いと悲鳴を引き連れ6年生である善法寺伊作が寝巻き姿のまま飛び込んできた。
これには生徒だけではなく先生も唖然。突然のことに教科書とチョークを取り落とし、目をまん丸に見開いている。

「ど、どうしたんだ善法寺…」

驚いた先生が問いかけるも、狼狽している伊作はそれどころではなく教室をきょろきょろと見回し、斉藤タカ丸の隣に座る綿毛のような髪を見つけるや否や、その小さな体に全力で飛びついた。

「三葉ちゃああああん!!」

「ふにゃぁぁ!!」

ただでさえ小柄な少女が6年生の全力タックルに耐え切れるはずもなく、三葉は押し倒されるような形で床に倒れこむ。
その騒ぎを聞きつけたのか、それとも嫌な予感でもしたのか、伊作がぶち壊した教室の入り口から顔を覗かせた綾部喜八郎は、衝撃的な光景を見て目を吊り上げた。

「何してるんですか」

まるで地獄から響いてくるようなおどろおどろしい声で唸った彼は伊作を引っぺがし下敷きになっていた三葉を救出する。
しかし、事が事だけに落ち着いてなどいられない伊作は、三葉を護るように立ちはだかる喜八郎の肩を掴み、震える声で今しがた起こった事をなんとか話した。
必然的に聞こえる話に、生徒たちがにわかにざわつく。

「…夢でも見たんじゃないですか」

しかし、怒りが覚めやらない喜八郎は冷たく言い放ち、伊作の腕を強引に引き剥がした。
だがしかし、三葉は真剣な顔で、話を聞きながら、彼のむき出しの足首にそっと手を伸ばした。

「残念ですけど…夢じゃないみたいですねぇ」

ひょい、と上げられた三葉の小さな手には、彼の足首に絡み付いていた髪の毛。
脂ぎってところどころ血で固まったそれを目の当たりにした伊作は声にならない悲鳴を上げて懲りずに三葉にしがみつく。
それに対して目くじらを立てて怒鳴る喜八郎を少し離れたところから眺めていたタカ丸は、やれやれとでも言いたそうな表情で窓から見える綺麗な空を眺めた。

「善法寺くん、潮江くんか七松くんのところに行けばいいのになぁ」

それでも彼は、視えるだけで祓う力を備えていない三葉をこれからも一番に頼るのだろう。
呆れたように呟いたタカ丸の声に反応するかのように、窓の外から不気味な笑い声が聞こえた。

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