幸辛料

三葉の返事を聞いた伊作は、ん?と首を傾げる。
なにか違和感を感じたのだけれど、その正体がはっきりとわからなくて二度瞬きをした彼の視界で、ぎゅっと喜八郎の手を握り締めていた三葉はフンスフンスと珍しいことに鼻息を荒げていた。

「わ、わた、わたしも、綾ちゃんが、す、すき、すきです!!」

強い風が轟音と共に吹き抜けていった競合地域。しかし、その風は三葉の声を浚うことはせず、しっかりとその場に残していった。

「…は?」

「…え?」

前者・綾部喜八郎、後者・善法寺伊作。
短すぎる呟きはその場で転がるが、さっきよりも顔を真っ赤にしている時友三葉はそれどころではないのだろう、先程までの意気込みはどこへ行ったのだと小一時間問い詰めたいくらい小さくなって俯いて、ぷるぷると震えている。

「…え、は?」

「………」

それから少し時間が過ぎたというのに、少女の言葉の意味が理解できない喜八郎が意味の無い単語ばかりを呟いている中で、一足先に現実に戻ってきた伊作は、細く長い溜息を吐いて、寒さとは別の意味で震え始めた紫の肩に手を置いた。

「…よかったね、綾部」

優しく低く響いたその声で、喜八郎はやっと、三葉の言葉の意味と今の状況を理解することができた。

「三葉、ほ、本当に…?」

「……うん…」

まだ信じられないと言いたげな震える声で問えば、消え入りそうな肯定の返事。腹の底から湧きあがってくる歓喜を堪えきれなくなった彼は、目の前で震える少女をこれ以上ないくらいにしっかりと抱きしめて、強引に顔を上げさせた。

「嬉しい、三葉、僕、心臓が止まりそう…!!」

墨色の大きな瞳に映る、喜色満面の笑み。
優しくて暖かくて、ちょっとどきどきするその笑顔を見た三葉は、ああやっぱり私は彼が好きだったんだ、と涙を滲ませる。
猫のような彼の目にいつでも見守られていた少女は、件の騒動でしばらく向けられなくなってしまった彼の視線に焦がれ、自分と向き合うことができた。
本当は黙っていようと思ったこの気持ちが、やはりどうしたって我慢できなくなって、必死に彼の名前を呼んで、けれど振り向いてもらえなくて。
いつの間にか堪えきれなくなった嗚咽に混じり、三葉は喜八郎に何度も何度も謝った。

「ごめんね綾ちゃん。私と一緒にいると、きっと怖い目にあう。綾ちゃんはしなくてもいい体験なのに、きっと私が巻き込んじゃう…」

これが一番大きな、三葉が誰の気持ちにも答えようとしなかった理由。

「嫌な思い、させちゃう。怖い思いも、きっとさせちゃう。だけどごめんね、好きって言って、ごめんねぇ…!!」

もうひとつは、少女の言葉の束縛。
普段から隠し、なるべく使わないように意識している言霊の力。それはとても強力で、過去、少女はその力で偶発的とはいえ同級生ひとりの命を奪っている。
強い気持ちが篭る言葉ほど強くなるその力に、三葉はずっと怯えていた。
もし相手が三葉のことをなんとも思っていないとしても、ひょっとしたら、暗示のように相手の意識を刈り取って、無理矢理好意を植え付けてしまうかもしれない。
そう思った。だから三葉は、今まで向けられてきた好意を鈍感という盾で防いできた。
けれど、体は小さくとも心は年頃の娘。
気付かないうちに大きくなりすぎた少女の恋心は、ついに自制心すらも飲み込んで、たったひとつの勘違いでいとも容易く決壊してしまったのだ。
ひっくひっくとしゃくりあげる三葉を見つめて、少女の悲痛な叫びを受け止めた喜八郎は、それでも腕から力を抜かず、タンポポの綿毛のような髪を撫でながら自分でも驚くくらい穏やかな声で、おやまあ、と呟く。

「そんなことを気にして、今まで僕の心を弄んでいたなんて」

そこまで言うと、喜八郎は三葉からゆっくり腕を外し、華奢な肩を押して少し距離をとる。
涙に濡れた墨色の瞳が、優しい猫目を捉えた。

「聞いて三葉。僕は僕だよ。誰に何を言われても、僕は気にしない。僕が今まで誰かになにか言われて、気にしているところを見たことがある?」

「……ない」

「でしょ?それは、相手が三葉だって同じ。僕の気持ちは僕が自分で決める。僕は好きでもないものを無理矢理好きだって言わなきゃいけない時、たとえ演技でもこんな顔できない。無意識なら、尚更無理。それは、いつも僕の傍にいた三葉ならすぐわかるよね?」

「……うん、っ」

「怖いのだって、全然平気。自分のことだって自分で護れるよ、僕は強いから」

「う…っん!!」

「だから、もう泣かないで」

真摯な瞳でそこまで喋った喜八郎は、とうとう本格的に泣き出してしまった三葉を再度抱き締めた。
その姿を少し距離を置いたところでずっと黙って見つめていた伊作は、音もなく立ち上がって背を向け歩き出す。
感情を露にして子供のように泣きじゃくる三葉を見て、完敗を悟った。
きっと伊作相手では、三葉はあそこまで泣くことはない。どんなに怖い目に遭ったって、嫌な目に遭ったって、これくらい平気ですよと痛々しい顔で笑うだろう。

「あーあ。悔しいけど、おめでとう」

遠くまで突き抜ける空を見上げて優しい笑顔を浮かべた彼は、それだけ小さく呟くと、地面を蹴って姿を消した。



その日の夜更け。
自室でいつもと変わらずとんでもない刺激臭のする薬品を調合している伊作を見て、留三郎は顔を顰めた。

「…劇薬でも作ってんのかよ、伊作」

「まさか。これは化膿止めさ」

「化膿止めどころか息の根が止まりそうな臭いだな」

「はははっ、すまない留三郎」

普段通り、本当に、いつもと変わらない優しい笑顔で謝った伊作に鋭く舌打ちした留三郎は、乱雑に衝立を退けて手ぬぐいを彼の顔面に押し付ける。

「わぷっ」

「似合わねー顔してんじゃねぇよ」

ぶっきらぼうにそう言って、彼の隣に腰掛けた同室の男は、しばらくして深い溜息を吐き出した。

「……同室じゃねぇか、俺たち」

投げやりで、乱暴で、優しい声色。
微かな明かりが揺れる部屋に、嗚咽がそっと響き始める。

「…三葉ちゃんの想い人、本当は、ずっと前から知ってたんだ」

「…そうか」

「ずっと見てたんだ。あの子が僕を助けてくれたあの日から、ずっと…」

「…そうか」

「だから、僕は知ってたんだ。だけど、だけど…っ」

か細く震えていた伊作の声が、少しだけ大きくなった。

「好きだったんだ、僕だって…!!」

「…そうか」

「本当に、本当に、あの子のことがっ…好きだったんだよ、僕だってぇ…!!」

聞いているだけで胸が苦しくなる声で気持ちを吐き出した伊作は、そのまま手拭に顔を埋めて大きな嗚咽を溢す。
これくらいのことしかしてやれない留三郎は、恋に敗れた同室の震える背中をそっと摩ってやりながら、わかってるよ、と掠れた声で呟いた。
それとほぼ同時に、音もなく扉が開く。
文次郎がどかりとコーちゃんの隣に腰を下ろし、小平太が伊作の布団に寝転がり、長次がその足元に座る。一番微妙な立場である仙蔵も、伊作から少し距離をとって壁に背をつけ腰を下ろす。
情けない嗚咽が響く部屋で、友人の声無き優しさをきちんと受け取った伊作は、涙で濡れた引き攣る声で、ありがとう、と呟いた。

叶う恋もあれば、失う恋もある。
けれどそれは決して、辛いだけではない。

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