『事務室の黒電話』
一度はっきり認識すれば、それは目に映る。
人ならざる者が建物を覆っていることにやっと気が付いた7人は、またパニックを起こしかけたが、少女の一言で何とか堪えることができた。
「関わらなければ害はないと思います。それより、案内してください」
頼りない風貌なのに、堂々と要求した三葉は、先程から頑なに脱出口を探そうとしている理由を彼らに伝える。
「実は、気になるところがあるんです。なんとなく、行かなくちゃいけないような気がして。だから、案内してください」
虹色は消え、とても澄んだ墨色の瞳で懇願する少女を、誰が無下にできようか。
多少の恐怖心はあるけれど、ぺこりと頭を下げた時に揺れた綿毛に負けてしまった7人は、大きな溜息を吐いていやいやながらも頷いた。
そこからは早く、いち早くこの状況を打破したい彼らは三葉の言う『気になるところ』をまず洗い出すところから始める。
長次が黒板にざっくりと学園の平面図を描き、三葉に気になるところの方角を聞く。
「この教室ともう一か所どこかの教室、事務室と、休憩室と、階段と、トイレと、自習室…あれ?」
洗いだした場所を平面図に書き入れていた伊作が、ふと手を止めて訝しげなな顔をした。
同時に、同じような表情になる仙蔵、長次、兵助、三郎。
「…これは…」
「この学習塾の噂と、同じ場所なのだ…」
「学習塾の、うわさ、ですか?」
長次と兵助の呟きを、三葉がオウムのように繰り返す。
すると、いつの間にか隣に来た喜八郎が、チョークの折れ端をつまんで平面図に番号を振りながら、少女に説明を始めた。
「えっとね、この学習塾には何時からか『七不思議』と呼ばれる噂があって、それの場所がここに書いてあるのと同じなんだ。ここの教室でさっき見たのは、7不思議のひとつで『あの世からのチャイム』で、順番に『事務室の黒電話』『北トイレの啜り泣き』『休憩室の革張りソファ』『階段の合わせ鏡』そして『血塗れの自習室』と『忘れられた閉鎖教室』でーす」
「ふぅん?」
「おやまあ。天使ちゃんはこういうの平気なの?僕の友達、内容も聞かないうちに腰抜かしちゃったけど」
意外と薄い反応の三葉に、喜八郎はつまらなさそうにチョークを放り投げる。そんな彼に言葉にしがたい表情を向けた少女は、黒板の平面図をもう一度見てしっかり頭に叩き込むと、じゃあ、と右手の人差し指を事務室に向け
「教室から近いですし、ここから順番に回っていきましょう」
と、言った。
この状況で敢えて自ら更なる恐怖体験をしに行くような雰囲気に、足が重くなる。廊下の暗闇は、更に深くなっている気がした。
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三葉の明かりと事務室から拝借した懐中電灯で廊下を照らしながら進んだ7人は、遅い足取りながらも事務室にたどり着き、重たい扉を開けて少女を招き、噂の黒電話の前に立たせる。
「三葉ちゃん、これが『事務室の黒電話』だよ。なんでも、この電話はあの世に繋がっているらしくて、4を4回ダイヤルすると霊界と繋がるんだって…」
恐る恐る噂の内容を説明した伊作が、黒電話の受話器を外して三葉に持たせる。
しかし、それを受け取った三葉はきょとんとして、受話器をひっくり返したり振ったり、挙句の果てにはつつき始めた。
「ちょ、三葉ちゃん?」
「…あのぅ、これって、なにをするものなんですか?」
「なにって、だから電話だよ?」
「でんわって、なんですか?」
「あ…そうなんだ。天使は電話知らないんだ」
そう呟いて少女から受話器を取り返した伊作も、黒電話の前で頬を掻いた。
「…って言っても、僕も黒電話のかけ方なんて知らないし…」
携帯電話が普及しているこの世の中で、プッシュボタン式はおろか有線の電話も珍しいのだろう。ましてダイヤル式の黒電話の使い方を知らない伊作は、背後に立つ人物に助けを求めた。
「立花くん」
「すまん、私も知らんのだ」
「中在家くんは?」
「……わからない…」
そのまま兵助、三郎、喜八郎に聞くが、皆揃って首を横に振る。
どうしたものかと困り果てた伊作が受話器を置いた瞬間、守一郎が控えめに挙手した。
「おれ、わかります。じいちゃんちがいまだに黒電話使ってるんで」
そう言って彼に歩み寄った守一郎は、場所をかわり、かすかに震える手で受話器をあげて、ゆっくりとダイヤルをまわし始めた。
時折怖いのか、傍に立つ三葉をちらちらと縋るような目で見ている。
そして4つ目の4を回し終わった時、それは起こった。
「…どっかに、電話かかってる…」
震える声で、守一郎が呟く。
市外局番も該当する電話番号もありはしないはずなのに、コールの音が聞こえる。
彼は心の中で、どうかどこにも繋がりませんようにと祈ったが、一呼吸後、プツリと回線が繋がる音がした。
「…もしもし」
『………もしもし』
はっきりと耳に届いた、しゃがれた老婆の声。受話器を取り落しそうになった守一郎は、なんとか必死に声を絞り出した。
「…おれ、浜守一郎って言います」
『……はい。知っています』
帰ってきた言葉に、今度こそ守一郎は受話器を取り落した。
大きな音を立てて本体ごと床に落下した黒電話に、その場の全員の背筋が凍りつく。
「電話線…つながってないんだけど…!!」
もしもし、もしもしと呟き続ける受話器から視線を逸らせないまま、7人はなんとか現状を把握しようとする。けれど、恐怖で頭がうまく働かない。
すると突然小さな手が、ひょいと受話器を拾い上げた。
「えーっと、もしもし?」
「三葉ちゃん、逆…」
「あ、こっちですか?えっと、もしもし?」
見よう見まねで受話器を耳に当て、もしもしと繰り返す少女。その光景を見て多少平常心を取り戻したのか、もしもしとしか言わない三葉から守一郎が受話器を取り上げ、再度耳に当てた。
「…ばあちゃん」
『………なあに?』
「ばあちゃん、どこにいるの?」
『………わからない。ここは暗くて、何も見えない…』
時折混じる雑音が、彼の恐怖心を刺激する。けれど、守一郎は自分を奮い立たせ、電話の向こう側の老婆に話し続けた。
「そうなんだ。おれも、今真っ暗なとこにいるよ」
『…そうなの…寂しくはない…?』
「平気だよ。俺は男だから」
『…そう…強い子なのね…』
「ばあちゃんも、寂しくなったら思い出せばいいんだ」
『…なにを…?』
「好きなものとか、楽しかったこととか」
いつしか守一郎は、自分の祖母に話しかけるように言葉を紡ぐ。その声は穏やかで、優しくて、元気で、聞いている方も元気になれるような、そんな声だった。
『…そうね。おばあちゃんも、そうするわ』
電話の向こうの老婆の声は、最初とは違って少しだけ明るく聞こえる。
「うん、じゃあ、もう遅いから切るな。こんな時間にごめんな、ばあちゃん」
『いいのよ。うれしかったわ、ありがとう』
最後の方は、ほぼ雑音にかき消されてうまく聞き取れなかったけれど、穏やかな老婆の声は、それきり聞こえなくなった。
物音ひとつしなくなった受話器に安堵したのか、その場にへたり込んだ守一郎の逆立った髪を、三葉が撫でる。
「守一郎くん、よくがんばりました」
「あ、ありがと…」
「おばあちゃん、寂しかったんだって。電話してくれる人はたくさんいたけど、みんな怖いしか言わなくて、だからもう怖がらせてやろうって気持ちになっちゃってったんだって。だけど、守一郎くんが優しく話しかけてくれたから、もう大丈夫だって」
頭をなでながらそう言った少女に、守一郎は怖いやら温かいやら、なんとも複雑な気持ちにさせられてしまう。
けれど、目の前で柔らかく笑う三葉を見て、彼もまたいつもの笑顔でそうかと笑った。
黒電話は、もうどこにも繋がることはないだろう。
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