『あの世からのチャイム』

突然の出来事に、誰かが息をのむ。
不快に静まり返った教室内でただじっと、大きな音を立てた方向の廊下を見守っていた喜八郎は、ふと袖を引かれて視線を斜め下へとずらす。
なぜその方向を見たのか、見なければならないと思ったのか彼には分らなかったけれど、今まで体験したこともない、所謂“直感”とでもいうのだろうか、それに突き動かされた。
そして、ぎくりと体を強張らせる。

「綾ちゃ、…綾部くん。彼は、きみに呼ばれたんだよ」

「え…」

腑の奥底まで覗き込まれているような、不思議なきらめきを湛えた瞳。
愛らしさしか感じないはずのその丸い瞳を見て、丸い瞳に見られて、喜八郎の背中を悪寒が走り抜けた。

彼の脳裏に蘇るのは、数ヶ月前…今日のように天気が悪かった日に、今日のようにつまらないと呟いた彼は、ふといつか耳にした噂を思い出す。

≪帰宅を告げる歪な鐘の音を聞くと、あの世に連れていかれる≫

子供ではない彼は、その噂を信じてはいなかった。けれど、大人でもない彼はただの噂だと受け流すことをせず、その日1人教室に残り、噂の9時の鐘の音を聞いた。
黒板に爪を立てているような不快な音が混じっていそうなその音は彼の鼓膜を揺らして、不満を抱える彼の胸に届く。
そして共鳴するように、彼の口から言葉を引きずり出してしまった。

『毎日本当につまらない』

なんのけなしに呟いたその言葉。けれどそれには毎日への不満や不安、そのほかにも、彼すら気づいていない負の感情が混ぜ合わされていて。
そして鐘は、最後の最後でひび割れ、歪み、まるで狂喜したかのように甲高く伸び、消える。
いつもと違うそれに、いつもと同じ彼は気付かなくて、何も起こらないことに肩透かしを食らい、家路を辿った。
その影を掴もうとした黒い手があったことに、気が付かないまま。

まさか、と声にならない呟きを漏らした喜八郎は、半信半疑の表情で、けれどその目に確かな不安を湛え、三葉を見つめた。
先程までのほわほわした雰囲気はいつの間にか掻き消え、そこにはただ無表情の少女。

「軽い気持ちでやったんでしょ」

「……だって、まさか、…」

無表情で、責めるような声でそういった三葉に、喜八郎は返す言葉もなく口篭る。
だってまさか、本当に何か起こるなんて思ってもみなかったんだ。
言いたかった。けれど喜八郎は言えなかった。
黙りこくって、とうとう俯いてしまった喜八郎からやっと視線を逸らした三葉は、突然のことに状況が分からずただ立ち尽くしている6人にとりあえずさっさと家に帰りましょうと提案しようとしたが、タイミングを失う。
いつの間に消灯されたのか、非常灯だけがか細く光る薄暗い廊下から、かすかに、足音が聞こえた。

「…力が、ちょっと弱いのかなぁ」

三葉の口からぽつりとこぼれた呟きに、仙蔵が首をかしげたその瞬間。
風もないのに…もっと言えば、窓すら開いていないのに、教室の扉ががたんと揺れる。
静まり返っていたせいか、とても大きく響いたそれに驚き一斉に視線を向ければ、彼らと同年代くらいだろうか、きれいな手が、そこにあった。

『ねえ』

聞き覚えのない少年の声が、教室に響く。
無害そうなその声はどことなく楽しそうだ。

『ねえ、毎日がつまらないならさ』

ドアの向こうで少年がしゃべると、見えていた手がひらひらと誘うように揺れる。

『僕と一緒にいこうよ』

聞こえたそれに、今まで体を強張らせていた少年たちは安堵の息を吐き出す。誰かのいたずらだったのかと、胸を撫で下ろす。
そして引き攣っていた表情を緩め、さあ帰ろうかと鞄を手に取り先頭を歩きだした鉢屋三郎。

その手を、三葉がぐっと引っ張った。

「鉢屋先輩、だめですよぅ」

「どうした?なにがだめなんだ?」

「やめた方がいいですよぅ、先輩、怖いの苦手でしょ?」

「なっ…!!」

無意識のうちになのか、可哀そうなものでも見る瞳で三葉が三郎を見る。
少女の言葉に顔を赤くした三郎は、必死に否定し首を振った。

「こここここ怖くねーよ!!」

「ニワトリみたいになってるのだ」

「なってねーわわわわわ!!」

「コーラスみたいだな」

図星を刺されて恥しいのか、それとも純粋な恐怖からか、どもる三郎を兵助と仙蔵が茶化す。それにより幾分か和らいだ恐怖感…けれど、その中でただ一人、綾部喜八郎だけは顔を青くしてその場できつく拳を握り締めている。

「…彼は」

「ほぇ?」

「ねえ、彼は僕を、呼びに来たの?」

ドアの手から視線を外さないまま絞り出すように呟いた喜八郎に、少しだけ黙った三葉は、小さく頷いた。

「…そうだよ。綾ちゃ、綾部くんが彼を呼んだんだもん」

少女もまたドアの手を見つめ、悲しそうに瞳を伏せて、喜八郎に告げる。

「面白いとか、つまらないとか、そういう感情はね、生きてないとわからないの。生きてるからいろんな感情があって、いろいろ感じて、いろいろ思えるの。例えば死にたいっていう人だって、生きてるから辛いって思う気持ちがあってね…」

そこで一旦言葉を区切り、喜八郎を見た三葉は静かに続けた。

「死んじゃったら、そこでおしまい」

少女の言葉が途切れた瞬間、ドアの手がべしゃんと廊下に落ちる。
暗い廊下に、なぜかくっきりと見える白い手と赤い血。とめどなく流れ出てくるそれは今日の雨のように、廊下を真っ赤に染めていく。

「なに、あれ…」

そう呟いたのは誰か。
廊下に広がる夥しい鮮血を見て、ひっと短い悲鳴を漏らした守一郎の足が、学習机にごんとぶつかる。

「うっ、うわああああ!!」

それが引き金になったのか、真っ青な顔をした兵助が叫び、触発された三郎が咄嗟に自分の鞄を掴んで、腕が見える扉と別の位置にある扉に向かって駆け出した。
それにつられるように、仙蔵、伊作、長次も駆け出し、教室から飛び出す。
ただひとり喜八郎だけは、扉の向こうにいるモノに魅入られたかのようにその場に立ちつくし、虚ろな瞳で瞬きもせず廊下に落ちた手を見つめていた。
音もなくただひたすらに、泉のように湧き出る真っ赤な血は、気付けば教室にまで入り込み、じわじわと彼の足もとまで伸びてきていた。
それをぼんやり眺めているだけの喜八郎。
これに触れたらどうなるんだろう。
これに染まったらどうなるんだろう。
頭の奥で誰かがそう言い、彼の興味を誘う。
もうあとほんの少しで、彼の靴に届きそうな鮮血…けれど、誰かがそこに一枚の紙を差し込んだ。

「だめだよ」

静かな声で呟いた少女は、彼の靴と赤とを遮った紙をその場にひらりと捨て去って、もう一度、ダメだよと呟く。

「…一緒には、いけないよ」

少女の声で、喜八郎の虚ろな瞳に微かな光が戻る。

「いかないよ」

はっきりと続けられたそれに、完全に瞳に光が戻った喜八郎はぎりぎりまで来ていた鮮血に今更ながら驚き、一歩下がる。
はっきりとした拒絶が伝わったのだろうか。
廊下に落ちていた手は、がりがりと悔しそうに床を数回引っ掻いて、まるで煙のように消えた。
床を汚した鮮血も、どこにも見当たらない。

「…なんだったの、今の…」

震える声で三葉に問いかけた喜八郎は、無言のまま悲しそうな顔でじっと自分を見つめ返す少女の視線に居心地の悪さを感じ、早々に少女からの返答を諦めて周りを見回した。

「おやまあ。誰もいないし」

置き去りにされたことをそこでようやく把握した彼は、やれやれとでも言わんばかりに肩を竦め、鞄をもって乱暴に開け放たれたままの扉まで行き、少女を振り返った。

「…天使ちゃん、帰らないの?」

少しだけ意地が悪い問いかけに、しかし三葉はゆっくりと彼を見つめ、首を横に振った。

「…多分、帰れないと思うよ」

眉を下げて、申し訳なさそうに言う少女に意味が分からないと首を傾げた喜八郎は、そっか、じゃあねとそっけなく手を振り、教室を出て玄関に向かった。
早く家に帰って忘れよう。
しばらくは居残り勉強もやめよう。
胸の内で呟きながらたどり着いた玄関…そこに蠢く影。

「…ぅ……」

せっかく落ち着きを取り戻しつつあったのに、また心臓がどくどくと暴れ始める。咄嗟に口を閉じたおかげで情けない悲鳴が漏れたりはしなかったのだけれど、うごうごと玄関扉の前で蠢く影を距離を取って観察した彼は、直後その柳眉を顰めることとなる。

「…なにを、されてるんですか?」

蠢く影が、彼の声を聞いてぴたりと動きを止める。
よくよく見れば、影の正体は先程まで教室にいた人物たちで。

「何をしてるんですか、そんなところで」

正体が分かった安心感からか、先程よりも少し強めに言い放った喜八郎。

「…か、ないんだ……」

「え?」

「開かないんだ…」

「は?」

「だから、玄関が開かないんだよぉ!!」

涙交じりで怒鳴った伊作の言葉を、彼は少しの間理解できなかった。

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