ようこそ、非日常

冬の寒さが徐々に和らいできた日の午後。ぽかりと浮かんだ太陽がとても暖かな日差しをくれたので、三葉は授業が終わった後に日が暮れるまでと決め、もはや定位置になりつつある運動場の大きな木の下…彼女の絶好の日向ぼっこスポットへと向かっていた。

「今日は風もないし、あったかぁい。久々に気持ちいいなぁ」

眠りを誘う暖かな陽気にご機嫌な彼女は、誰にでもなく呟きながらるんたったと運動場を歩く。
ともすれば鼻歌までも漏れだしそうな三葉だったが、もう少しで大木が見えるかというところまで来て、奇妙な悲鳴を上げた。

「ほぁっ!?」

けれどそれも仕方のないこと。なんと彼女の右足が踏み抜いたのは、ぽかりと大きな口を開けた穴。ずるんと勢いよく重力に従い穴の中へと誘われる三葉は、本当にあっという間の出来事の中でちゃんと気が付いた。
運動場は競合地域に当たり、色々な罠が仕掛けられている可能性があること。
自分が今しがた通り過ぎた場所に、小さいけれどしっかり罠のしるしとなる葉っぱと木の枝が置いてあったこと。
そして、多分穴に落ちれば痛いであろうこと。
基本的に運がいい彼女が競合地域で罠にかかってしまうことはそうないのだけれど、何かに夢中になっていると稀に引っかかることもある。
今日はそういう日だったんだろうなあと浮かれた自分を顧みながら、とりあえず大きな怪我をして皆に心配をかけないようにしなくちゃあと気を取り直した三葉は、迫りくる衝撃と痛みに備えて体を縮こませ、ぎゅっと目を閉じた。

まさかこれが切欠で、奇妙な事件に巻き込まれてしまうだなんて、夢にも思わないまま。





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場所は変わり、時は平成。
夕方前だというのに薄暗い、今にも雨が降り出しそうな空を眺めながら、古めかしい校舎の窓枠に肘をついてぼうっとしていた少年が、ぽつりと零す。

「毎日、なんかつまんない…」

冷気と湿気を含んだ風が彼の癖毛を揺らして、広い教室の空気に混ざる。
その呟きを聞いたからか否か、真剣にノートにシャープペンを走らせていた青年が、苦笑を漏らした。

「それ、僕も時々思うよ」

カリカリ、ときりのいいところで手を止めた青年は、柔らかく跳ねる色素の少し薄い茶色の髪を揺らしてつまらないとこぼした少年に同意する。

「毎日学校へ行って、こうして学習塾へ行って、家に帰って勉強して、ご飯食べてお風呂に入って寝る…そんな毎日の繰り返しだもんね」

「…こんなにつまらない気持ちなのに必死に勉強して、将来いい会社に入れたとしても、楽しみなんてないままつまらない気持ちで仕事して過ごしそうで、なんだか最近、それが少しだけ怖いんです」

視線は外に向けたまま、少年は呟く。
別に不満があるわけではない。学校へ行けば友達だっているし、たまに遊ぶこともある。ここの学習塾も、建物はまあ古臭いと思わないこともないが、学年や学校が違う人がいて刺激になるし、成績も上がっている。家に帰れば母が暖かなご飯を作って待っていてくれているし、父は帰りが遅いけれど顔を合わせれば話をして、何か行き詰まったりすれば相談にだって乗ってくれる。
恵まれた環境だと思うけれど、却ってその環境が、退屈な気持ちを生み出しているように思えてならない。
けれどそれが自分のわがままだとわかっている少年は、別に何か行動を起こすわけでもなく、ただ時々不満を口に出すだけ。
それを時折見ていた青年は、自分にも覚えがあるのかこうして優しく同意してくれるし、話だって聞いてくれる。

「…すみません、善法寺先輩。勉強の邪魔をしてしまいました」

「全然いいよ、気にしないで。僕も丁度息抜きしたかったから、綾部くんが話し相手になってくれて嬉しいよ」

気の優しい青年、善法寺伊作にぺこりと頭を下げた綾部喜八郎は、いつまでも不貞腐れていないで自分も勉強しないとな、と気持ちを切り替え、優しい笑みを浮かべて気にかけてくれる伊作の隣の席に移動し、鞄から教科書とノートを取り出してぱらりと開いた。
しかしその瞬間、背後から肩を叩かれて下げたばかりの視線を上げる。

「そんな気持ちのまま勉強したってはかどらないだろ。ちょっと気分転換しないか?」

そう声を掛けてきたのは、クールな笑みが似合う…いや、いつでもシニカルな表情を張り付けて相手を煙に巻いている鉢屋三郎。
珍しいことに彼の後ろにはこの学習塾に通っている数人の生徒が立っており、喜八郎はおやまあと猫目を見開いて首を傾げた。
何故なら、彼の後ろに立っている生徒の誰もが、喜八郎が今まで真面目で面白みのない人だと思っていた人物だらけだったからだ。
失礼とも取れなくない態度だが、それは三郎も一度は考えたことがあるようで、くっと唇の端を持ち上げると芝居がかった口調で喋り始めた。

「いや、仕方ないさ。年明けのこの時期はモチベーションが下がりやすいんだ。寒いし、受験は目前に迫って嫌でも追い立てられる時期だからな。だからちょっとだけ、気晴らしをと思ってね…なに、そんなに時間は取らせないつもりさ」

そういいながら、彼は一冊の本を喜八郎の目の高さに掲げる。

「私の大親友が学校で図書委員会をしていてね、面白そうな本が入ったと教えてくれたんだ」

その真新しい本には、おどろおどろしい文字でこう書いてあった。

「降、霊…術…?」

「そう、降霊術大全集。別にそう言ったモノを信じてるわけじゃあないが、少しおもしろそうだと思ってね」

「降霊術…というと、コックリさんとかですか?」

「まあ、そんなようなもんさ。これに載ってたのはコックリさんではなくエンジェル様というヤツだったが、まあそんな大差ないだろう?」

もし興味があるならどうだ?と再度誘われた喜八郎は、何となく、本当にその時何となく、面白そうかもしれないという気持ちが湧いてきて、やります、と珍しく頷いた。隣で彼らの話を聞いていた伊作は危ないから軽い気持ちでやらないほうがいいと止めたのだが、三郎にそんなに心配ならちゃんと見ててくださいよと丸め込まれてあれよあれよという間に参加することになってしまった。
A4サイズの藁半紙を4枚テープで張り合わせ、その中心に大きなハートマークが書かれたシートを本を見ながら完成させた三郎は、じゃあ始めよう、と唇の端を吊り上げる。
その一連の行動を横目で見ていた学習塾の生徒たちは、ばからしいという顔をして教室を一人、また一人と出で行ってしまい、気付けば教室の中には7人だけになっていた。
ひとつの机を囲うように立つのは、鉢屋三郎、綾部喜八郎、善法寺伊作、久々知兵助、浜守一郎、立花仙蔵、中在家長次。
制服も学年もバラバラなこの7人の中には、普段ならば絶対に参加しないような人物も混ざっており、変なメンバー、と喜八郎は思った。
けれど始めてみるとそんなことも気にならず、7人はくだらないことを問い掛けては反応を示す10円玉硬貨に驚き、笑い、肩の力を抜くことができた。
けれどそんな和気あいあいとした雰囲気も束の間で、曇天から雨粒が降り始め、教室の窓を打ち始めた頃、不穏な気配がどこからともなく流れ込んでくる。
なんだか変な空気になってきたことを数人が感じ始めたので、三郎がそろそろ終わるかと切り出した。
誰も反対することなく、エンジェル様という遊びを終わろうとした7人は、次の瞬間ぎくりと全身を強張らせる。
お帰りいただき、ハートマークの出入口を通過させてから皆で指を離した10円玉硬貨が誰も触れていないのに勝手にずるずるとシートの上を動き始めたからだ。

「な、なんだよ、これ…」

「どう、なっているんだ…」

震える声で誰かが呟くが、勿論磁石などで10円玉硬貨が動くはずもなければ糸も棒もない。あり得ない現象から目が離せなくなっていると、伊作が何かに気が付く。

「…あ、れ?なんか、言葉になってない?これ…」

伊作の言葉を聞き、三郎と仙蔵が10円玉の動きを目で追う。するとそれは確かに何か言葉になっているようで、7人は10円玉が辿る文字をゆっくりと口に出して読み上げ始めた。

「タ、イ、セ、ツ、ナ、モ、ノ、ヲ…オ、シ、エ、テ、ア、ゲ、ヨ、ウ…?」

ゆっくりと辿った文字を読み上げた仙蔵が、首を傾げたその時。弱い雨だったはずなのに、突然雷鳴が轟き、7人の視界を奪う。
どこか近くに落ちたらしいそれに驚き目を瞑った喜八郎がそろそろと瞼を持ち上げ、そして、絶句した。

「ほぁぁ…」

彼の隣に立っていたはずの善法寺伊作が、忍者のコスプレをしている女の子に一瞬にして変わってしまったからである。

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