デルタ△ボーイ

斜堂先生に話を聞いてもらい、久しく晴れ晴れとした気持ちで夕飯を済ませた三葉は自室に戻り、窓から格子越しに空を見上げた。
忍ぶにはふさわしくない、大きな大きな丸い月。青白く輝くそれはとても儚く優しくて、彼女の瞳には涙が理由もわからず浮かんだ。
零れ落ちないようにそっと目を閉じた三葉は、小さく小さく唇を動かす。柔らかなそこから漏れた言葉は、夕飯前に斜堂先生に言ったことと同じ言葉。
ゆっくりと繰り返し、それか自分の耳にするりと入り込んでいくうちに、彼女はふとあることに気が付く。

「私の、とくべつ…」

特別、と口にすると、ときりと胸が呼応するように高鳴るのだ。

「とくべつ…とく、べつ?」

ときり、ときり。繰り返せば繰り返すほど、胸はどんどん弾んでいく。

「これが…これが、恋?」

恋、と音にすれば、三葉の頬がぽっと赤らんだ。体を巡る血液が加速して、彼女の心を急かす。まるで早く気付けと言っているように。
そして見上げた月に、ふわりと視えたのは、深緑。
そこでひときわ大きく跳ねた胸に、三葉は慌てて自分の頬を押さえてぎゅっと目を瞑った。
脳裏に浮かぶ笑顔に、声に、大きな手に、三葉の頭が沸騰しそうに熱くなる。目を閉じても消えなくなってしまったその色に、とうとうその場にへたりこんでしまった彼女はあわあわと部屋中に視線を彷徨わせ、何か言おうと口を開き、音になりそうでならない声を飲み込んで昼間とは全く違った意味で膝に顔を埋めた。
【特別】を意識した途端、なんとも言い難い高揚感と緊張とが溢れ出し、三葉は敷いてあった布団の上から枕を引っ掴むと、それらを何とか逃がそうとして振り回す。

「どうしよう、どうしよう…っ」

真っ赤な顔でひとり慌て、枕を振り回し、ついでにぶるぶると首を振る。しかし浮かんだ思考が霧散することはなく、少女は生まれて初めて、胸が焦がれて眠れない夜を過ごした。




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そして次の日。
うわの空で授業を終えた三葉は、心配そうな顔をしている喜八郎を背中にくっつけたまま運動場を目指す。目的は日向ぼっこ…ではなく、彼女の胸を昨晩から焦がしている人物を探すためなのだけれど、道中で少女を姿を見かけた立花仙蔵と潮江文次郎、久々知兵助と鉢屋三郎と不破雷蔵は喜八郎と三葉の顔を見るなりぎょっと目を見開いて駆け寄り、口々に一体どうしたんだと問い掛けた。

「三葉、どうしたんだ!?顔が真っ赤じゃないか!!」

「熱でもあるのか?具合が悪いんじゃないのか?」

中でもとりわけ心配性な仙蔵と三郎が問うも、三葉はふるふると首を振り、胸の前でぎゅっと拳を作ってきっぱりはっきり言い切った。

「私の好きな人を、探しています!!」

「「「なっ、なんだってー!!?」」」

唐突な少女の告白に文次郎と雷蔵が三郎と共に絶叫し、あまりのことに仙蔵は絶句。特に三葉に想いを寄せていた兵助のショックは相当で、すでに大きな目には涙が滲み始めている。
そして誰よりも少女を想い、誰よりも少女の近くを陣取り、ずっとずっと少女を守り続けていた綾部喜八郎は、死の宣告に等しいその言葉を聞き唇を戦慄かせ、ぐっと拳を握りしめた。
ずっと喜八郎を背中に張り付けたまま、三葉は探していたのだ。つまり彼女の好きな人とは、喜八郎ではない人のことを指す。瞬時にそこまで理解してしまった彼は詰まってしまった喉にそっと、肺から震える空気を送り出す。
本当は彼女の肩を掴んでゆすぶり、それは誰だと問い質したい。今すぐにでもその人物の名を聞いて、そいつを探し出して殺してやりたい。
けれど思考に反して頑なに動こうとしない喜八郎の体と口はただ小刻みに震え、真っ赤な顔の少女を見つめるばかり。
これから先も彼女の隣に居られる…いや、彼女の隣を死守する気満々だった少年は、くらくらと揺れ始めた地面に視線を落とし、心配そうな仙蔵の声にも反応せず、今にも溢れ出してしまいそうな想いをぐっと唇を噛んで堪えていた。
その彼の耳に、愛しい少女の声が飛び込む。

「あっ、いたぁ!!先輩、せんぱぁいっ!!」

少女の口から飛び出した歓喜の声に、喜八郎はぎゅっと眉間に皺を寄せた。
大好きな三葉を自分から勝ち取った、憎い…けれどとても優しい先輩。譲るつもりなんて毛頭なかったけれど、喜八郎はどこか諦めを孕んだ溜息をやっとの思いで吐き出して、目の前で真っ赤になっているであろう伊作に悪足掻きの罵声を吐くため顔を上げる。

「ぜ…おおっ!!?」

そして憎い彼の名を吐きかけて、ただでさえ大きな瞳をさらに大きく大きく見開く。

「よぉ綾部喜八郎!!なんだその豆に鳩鉄砲喰らわしたような顔は?」

「えっ、いや…ええぇぇ…?」

未だかつてない戸惑いにツッコミすらできず、狼狽の声を漏らしながらなんとか周囲を見回せば、そこには自分とよく似た顔をした先輩たち…その中にはなんと先程まで彼を絶望へと突き落としていた善法寺伊作の姿もあり、喜八郎は震えながらおやまあと呟いた。

「先輩、先輩、小平太先輩」

「おう!!どうした三葉、今日はやけにご機嫌だな?なんかいいことあったのか?」

「えへへぇ、いいことありましたよぅ」

「そうか!!」

固まっている友人や後輩に特に心配そうなそぶりを見せず、三葉を腹にくっ付けているのは忍術学園の暴君、七松小平太。
言ってしまえば普段からよく見かける光景なのではあるが、その場に居合わせた…特に三葉を気に掛ける者たちは絶望の表情から一変、ありありと焦燥が浮かんだ顔でまさかと呟き少女を見つめる。

「…えへへ…」

視線を受け、頬を赤く染めてはにかんだ三葉。
そのままぽふんと小平太の腹に顔を埋める仕草は大変に可愛らしいものなのだが、いかんせん今はそんなことを言っている場合ではない。

「三葉っ、いやっ、駄目だろ小平太はお前、死ぬ気か!?」

「三葉がっ、私の可愛い三葉が暴君に壊されてしまうぅぅ!!」

「コレハナニカノマチガイダ」

「わぁっ、三郎!!気を確かに!!」

ぎゃあぎゃあと泡を食って騒ぎ始めた彼らに他の生徒たちは面食らうが、そんなものはどこ吹く風。
だがただひとり、顔面蒼白で佇むのは善法寺伊作。

「…告白したのは僕なのに、なんで小平太…?」

驚愕とも哀愁ともとれる呟きは動転した彼らの悲鳴に掻き消され…るばずだったのだけれど、同じ気持ちを少女に向ける後輩にはしっかり聞こえてしまったようで、とんでもない目ヂカラで「は?」と睨みを利かせる兵助と喜八郎。
観念して…まあ事故でもあるのだけれど、抜け駆けしたことを正直に吐いた伊作は次の瞬間2対の腕にギュッと首を絞められる。

「何てことしてくれたんですか不運大魔王先輩!!真面目な三葉にそんなこと言ったら真剣に考えて迷走することなんて目に見えてるのだ!!だからあの子がちゃんと愛とか恋を理解できるようになるまで抜け駆けなしと協定を組んだのに!!」

「ぐえっ、く、苦しい…久々知はな、離して…!!」

「さすが元祖アホのは組ですね不運こ大明神先輩。僕でも久々知先輩の提案を理解していたというのに…現状で三葉が【特別】を選ぼうとしたらそりゃいの一番に七松先輩が浮かびますよ。なんせ彼は三葉が嫌がる霊害を全部跳ね除けてしまえるんですから」

「げほげほっ、で、でもそれだけで…!?」

必死の思いで2人の腕を首から引きはがした伊作は、咳き込みながら喉を擦り、とんでもなく殺意の籠った目で睨んでくる後輩を見上げて恐る恐る聞き返した。
それに呆れ返った溜息を長々と吐き出した兵助は、いいですかと彼の目の前に人差し指を突き付けて凛々しい眉毛を吊り上げる。

「精神学に【つり橋効果理論】というものがあります。吊り橋効果とは【揺れるつり橋を渡ったことによるドキドキを、一緒につり橋を渡った相手へのドキドキだと勘違いし、恋愛感情だと思い込んでしまう効果】のことです。肝試しとかは効果てきめんでここにいる全員に機会がありますけど、それに加えて【安心感】までついてきたとしたら…恋に疎い三葉にとっては十二分に起爆剤になり得ますよ」

「その【安心感】を三葉にもたらせるのは僕の知る限り、祓える夢前三治郎と潮江文次郎先輩、跳ね除ける竹谷八左ヱ門先輩と…あの暴君です。寄せない立花先輩や僕、追い払える久々知先輩だって含まれる可能性はありますが、七松先輩と比べたらゾウとアリンコですから…本当にもう、余計なことしかしませんねぇウンコ先輩は」

心底厄介そうな顔をしている兵助と喜八郎に睨まれて、伊作は縮み上がるしかない。

「他の人間ならこの3人で組んで強奪できるけれど、七松先輩相手では身辺警護なんちゃらで徒党を組んでもできるかどうか…まったくもって本当に、厄介なことをしてくれたのだ!!」

「おやまあ心底同意です。勘違いで済ませるうちに、三葉に恋愛を理解させないと」

意気揚々と宣言し、少女をまだ諦める気がない3人は拳を握って立ち上がる。協定が破られた今、誰にも遠慮なしで想いを告げられると目をギラつかせる男たちの眼差しの先で、恐るべきくのいちの素質を秘めた少女、時友三葉は相も変わらず陽だまりのようにほややんと笑っていた。

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