夫婦喧嘩は犬も食わない

一方その頃、6年長屋の中在家長次と七松小平太の部屋にて。

「おい長次、一体何があったんだ?」

「なんか澄姫すっごく怒ってたぞ?」

普段通り本を読んでいる長次に、心配そうに問い掛ける文次郎と小平太。
それもそのはず、長次の持っている本は上下が逆さまの状態で、更に本人も本ではなく虚空を見つめている。
その様子を爆笑して見ていた仙蔵が、目尻に浮かんだ涙を拭って、長次の代わりに話し出した。

「ふはは、私も驚いた。怒り狂った澄姫がこの部屋から出て行くところを見かけたんでな、面白…心配になって長次に聞いたんだ、ふふふ…まったく、澄姫も可愛らしいところがあるじゃないか、なぁ長次?」

勿体ぶった仙蔵のその言葉に、文次郎と小平太は首を傾げるばかり。すると、長次が突然ばさりと本を取り落とし、部屋を飛び出していった。
その姿を見て、仙蔵はまた笑い出した。
全く話が見えない2人は仙蔵に詰め寄ると、彼は笑いながら教えてくれた。

「長次の奴、本に夢中になり過ぎて澄姫との約束を破ったらしい。それで呼びに来た澄姫に『何かあったか?』と聞いたそうだ。頭に来た澄姫は大きな声で『大嫌い』と叫んでなぁ…ぶっくく…長次、暫く固まっていたぞ…ははは!!」

「なんだ、そりゃぁ…くっだらねぇ…」

「夫婦喧嘩は犬も食わない、というからな、ははは!!」

呆れかえった文次郎の呟きは、仙蔵の笑い声に掻き消された。



−−−−−−−−−−−
会議室を後にした澄姫は廊下をとぼとぼと歩いていた。
学級委員長委員会で頂いた菓子のお陰で腹は満たされたものの、心には冷たい隙間風が吹いている。

「あんなことで怒った私の心が狭かったのかしら…」

彼女はそう呟いて、立ち止まり中庭に視線を向けた。いつの間にか日も暮れ、空は藍色に染まりかけている。
今日は、本当なら長次と町に行く予定だった。それなのに、彼は約束を忘れていた。本が好きなのは知っている。読んでいた本も、前々から彼が楽しみにしていた新刊だったと記憶している。でも、だからって

「それでも『何かあったか?』は、ないでしょう…」

約束に遅れたってよかった。忘れることだってあると思う。だけど、あの時の彼の目は、明らかに【用が無いなら本の続きを読みたい】という感情が浮かんでいた。

「あーもう!!酷い男だ、わっ!!?」

ぶり返してきてしまった怒りのままに柱を殴ろうとした澄姫の体が急にがくんと後ろに引かれ、驚く彼女の目の前で扉が閉まった。
突然のことに目を白黒させている彼女の体は、腰に巻きつく逞しい腕によってくるりと反転させられる。目の前に現れた顔を見て、彼女は目を見開いた。

「ちょ、長次!?ちょっと、なにし…んぅ!?」

彼の出現にも行動にも驚いたが、一体何事かと問い掛けた彼女の唇は、言葉の途中で塞がれた。
彼にしてはとても珍しい、息も出来ない程の口付けに、脳髄がびりりと痺れる。
しかし、突然現れて謝罪もなしにこんなことをしてくる長次に、澄姫の怒りが再沸騰した。

「んはっ…離、し、なさいっ、よっ!!!」

ぐいぐいと抱きしめてくる長次の腕をがむしゃらに振り解き、隙間ができた一瞬を狙って彼を蹴り飛ばした。

「………」

「と、突然何のつもり!?」

少しばかりやりすぎたか、と戸惑いながらも、澄姫が気丈にそう怒鳴ると、黙っていた長次がゆっくりと顔を上げた。その表情は

「…ふは、ふ、ふふふ…はははぁ!!」

満面の笑みで。彼は素早く縄表を取り出すと、それを彼女に向かって投げつけた。
得意武器だけあって、あっさりと彼女の片腕を捕縛した長次はぐいと縄を引き、澄姫を引き寄せる。驚いていた澄姫だったが、再度唇を塞がれそうになり怒りのまま彼の顔面に爪を立てた。
すると、長次はあろうことか彼女の肩に噛み付く。
お互いにすっかり頭に血がのぼり、それからはばたばたと酷い有様だった。
澄姫がお返しとばかりに長次の髪を引っ張り、長次もまた負けてたまるかと澄姫の顎を掴む。その腕を取って彼女が見事な背負い投げを決め、受身を取った彼が渾身の力で彼女の装束を剥ぎ取った。

「何するのよ馬鹿!!変態!!嫌い!!嫌いよ!!長次なんて大嫌い!!私のことなんて、私との約束なんてどうでもいい癖に!!」 

恥ずかしさと怒りのあまり半泣きで叫んで蹲った澄姫。ぎろりと睨んだ先の彼は、とても悲しそうに眉を寄せていた。
そのあまりにも悲しそうな表情に良心が痛む。と、同時に長次が彼女の腕を掴みどさりと床に押し倒した。
露になってしまった胸を何とか隠そうと彼の腕を振り解こうとするが、先程とは打って変わって、どんなに頑張っても長次の腕は外れない。

離せ、と叫ぼうとしたその瞬間、またまた長次の唇によって言葉を奪われてしまう。
そして、口付けの合間に、彼は悲しそうに呟いた。

「…すまなかった…」

そのたった一言で、澄姫の胸に燻っていた怒りは見る間に消えてなくなってしまった。
すまない、すまない、と謝りながらも口付けを止めない長次のさらりとした髪を、そっと撫でる。
それを合図のように、彼がようやっと唇を離したので、澄姫は苦笑しながら呟いた。

「…私も、ごめんなさい。嫌いだなんて、思ってないわ」

その言葉を聞いて、ぎゅっと抱きしめてきた長次の背に腕を回して、澄姫は瞳を閉じる。

「…口付け…もう一度、する?」

そう囁くと、長次はコクリと頷いた。
存外可愛らしい彼の行動に微笑んで唇を合わせた澄姫だったが、押し倒された床から冷えた空気が体に伝わりぶるりと身を震わせる。

「さすがに寒いわ…」

唇を離してそう小さく呟き、長次の肩を押すが、彼は一向にどかない。それどころか彼女の横腹をさすさすと摩る彼の手付きが、なんだか、どことなく、妖しい。

「ちょ、長次?」

「…寒いのだろう?」

うっすらと頬を染めて彼の名を呼ぶと、耳元で囁かれ短い悲鳴が上がってしまう。
そんな彼女の胸を、大きな掌が乱暴に包み込んだ。

「…私が、暖めてやろう」

「ちょっ、まさか、ここで!?ちょっと待っ…やっ、あん!!」





−−−−−−−−−−−−−−
その後、大分遅れて夕食の場に姿を現した2人に、全員が仲直りしたんだなと笑った。
ただ1人、留三郎だけは首を傾げていたが。





お題:確かに恋だった

[ 85/253 ]

[*prev] [next#]