壊れゆく○○○

まだ夕暮れ前だというのに、しんと静まりかえった忍術学園。
いつもならあちこちから賑やかしい声が聞こえてくるのに、それが嘘のように物音ひとつしない。
風に乗ってかすかに聞こえてくるのは、啜り泣く小さな幼い声。
それは、医務室前の廊下から。

先程勘右衛門が、血塗れの留三郎を抱えて医務室に転がり込んできた。
一目見て尋常ではないその怪我に、新野先生が大慌てで治療を開始した。
かなりうろたえていた伊作も、何とか気をしっかり持ち彼の手当てに助力し、事なきを得た。
しかし新野先生は血に塗れた手を洗いながら、真剣な顔で伊作にこう告げた。

−非常に危険な状態でした。あと一歩尾浜君が遅ければ、失血死していたところです−

それを聞いた伊作の顔からは見る見る血の気が失われ、その場にすとんと座り込んだ。
自分があの時、数馬を医務室へ連れて行った後すぐ戻っていれば…そんなことが頭をよぎる。
茫然自失状態の伊作を新野先生が心配そうに伺い、しかし声を掛けずに退室した…と同時に駆け込んできたのは、用具委員会の後輩たち。

「先輩ぃ…先輩〜ぃ…」

痛々しい姿の留三郎を見ると、1年生の3人は小さな手で既に真っ赤な目をぐしぐしと擦りながらわんわんと泣き始めた。
いつもはしっかりしている3年生の作兵衛も、編入したばかりの4年生…守一郎も、自身が所属する委員会の委員長の変わり果てた姿に愕然としている。

「い、一体、誰が…」

じわりと滲んだ涙をそのままに、作兵衛が小さく呟く。
それに答えるのは、沈黙だけだった。



−−−−−−−−−−−−−
留三郎の事件は、あっという間に学園中に広まった。
下級生たちは怯え、先生たちは緊急会議の末警戒を強めることになり学園の外にまで見回りに出かけている。
相変わらず意識を取り戻さない留三郎は医務室の奥に寝かされ、同室であり親友であり保健委員会委員長である伊作は、仄かな明かりひとつを灯し薬草を煎じていた。
ゴリゴリという薬草をすり潰す音だけが響いていた医務室の扉が、すっと静かに開かれたのに気付き、伊作は顔を上げる。
そこには、暗い表情の澄姫が立っていた。

「…澄姫……」

「留三郎の、具合は…?」

普段よりも元気のない、暗く沈んだ声で問いかける彼女に、伊作は緩く首を振った。

「…あの男が…朱雀が、やったのね?」

少しだけ間をおいて、小さな、しかし核心の篭った声で彼女が問いかけると、伊作の瞳に怒りの炎が灯った。
その怒りは果たして朱雀にか、彼自身に向けられたものか…判断がつきかねるものの、伊作は静かに事のあらましを彼女に伝えた。

「僕が…僕が、あの時すぐ戻っていれば、留三郎はこんなことにならなかったのかな…」

そして最後に呟かれた彼の珍しい言葉に、澄姫はぐっと歯を食いしばり伊作を抱き寄せた。
暖かなぬくもりに包まれて、伊作の瞳からぽと、と一粒の涙が零れる。
それを皮切りに、とめどなく溢れ出す涙を掌で擦りながら、伊作は小さく嗚咽を零し始めた。

「とっ、留さん…もう少しで死ぬ、ところだったって…僕が、僕、は…」

澄姫の細い体躯にしがみ付き、友人を失うところだった恐怖をやっと身にしみて感じ始めた伊作。
彼の弱ってしまった心を目の当たりにして、暗く伏せられていた彼女の瞳はぎゅっと鋭さを増した。
泣きじゃくる伊作の柔らかな髪を撫でながら、彼女は呟く。
その内容は伊作の涙を止めるほどの威力を持っていた。
驚きの色に染め上げられた彼の表情は、次の瞬間さぁっと青褪める。

「だっ、だめだ!!絶対だめ!!危険すぎるよ!!」

がくがくと彼女の肩を掴んで揺する伊作の手をやんわりと包み込み、澄姫はにっこりと微笑んだ。

「心配しないで…滝を脅すほどだもの、何か目的があって私に近付いたんでしょう?それなら私が直接問い詰めたほうが手っ取り早いわ」

「だから余計にだめなんだよ!!しかも相手は男で、小平太に勝るとも劣らない実力の持ち主なんだよ!?最悪の場合君が抵抗できる相手じゃない!!」

「しぃ…留三郎の傷に響くわ」

すっかりヒートアップしてしまった伊作が自分の声の大きさにはたと気付いて口を掌で覆う。
ちらりと横目で留三郎の姿を確認すると、相変わらず彼は静かに眠っているようだった。
それに一安心するも、本題はそこじゃないとばかりに声を潜めて彼女の説得に再度取り掛かる。

「とにかく、絶対だめ。危険すぎる」

ぶんぶんと首を横に振り、断固拒否の姿勢を崩さない伊作。
しかし、彼女は真摯な瞳で彼を見て、はっきりと告げた。

「…これ以上、好き勝手させたくないの。例え私がどんな目に遭っても」

その言葉には、自分を守って傷付いた滝夜叉丸をこれ以上傷付けたくない、留三郎のように級友を酷い目に晒したくない、という強い想いが込められていて、伊作は思わず絶句してしまった。

「…ね、お願い」

とどめとばかりにそう強請られ、伊作は大きな溜息と共に肩を落とした。

「…まったく、本当に頑固だね。でも、あの男は危険なんだ、せめて6年生全員に一声掛けてから行ってくれよ」

「ありがとう…」

彼の忠告にしっかりと頷いて、澄姫は静かに医務室を後にした。
一人残された伊作は天井を仰いで、頼んだよ、と小さく呟いた。



−−−−−−−−−−−
約束通り、律儀に6年生全員に声を掛けてから、澄姫は朱雀にあてがわれた部屋の前に立っていた。
控えめに声を掛けると、笑顔の朱雀が顔を出して彼女を迎え入れる。
目が笑っていない彼の表情をしっかりと見ていた彼女は、警戒しつつ扉を背後にして単刀直入に彼に問いかけた。

「ねぇ、朱雀」

「なぁに、澄姫?」

「何が、目的なの?」

冷たい彼女の笑顔に一瞬驚いた表情を浮かべた朱雀は、ゆっくりと歪に哂った。


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