元通

まだ薄暗い夜明け、くのいち長屋の一室で、澄姫はゆっくりと起き上がった。
うっすらと浮かぶ自分の手を、ぼうっと見つめる。

「…なに……?」

ぽつりと呟いたのは、先程まで見ていた夢への独り言。
おぼろげにしか覚えていないが、真っ白な空間に佇む白い色の変わった服装の男と、澄姫とそう変わらない年頃の女。
女は何かを必死に男に訴えていたが、やがて…

そこまで必死に思い出し、澄姫はぶるりと身を震わせた。

昨日の放課後、澄姫は飼育小屋の前でまるで夢から覚めたような気がした。
小屋の前には何故か6年生と5年生、そして土井先生がいて、ここ最近の記憶が妙に曖昧。
覚えていない訳ではないが、ところどころ霞がかかったように感じる部分がある。
そんな不快感があるものの、これといって疑問に感じない。
だから澄姫は、昨夜6年長屋に赴き、級友たちに確認してみた。

皆がそれぞれ、何かを忘れている気がするとは言っていたものの、取り立てて重要な気がしないのでそのうち思い出すだろうと楽観的に笑っていた。

「…私も、そのうち…思い出すかしら…」

真剣に思い出そうとすればするほど、何故か自分も珍しく楽観的な考えをしてしまう。
知らず眉間に寄ってしまった皺を指でそっと解すと、澄姫はごそごそと布団に潜り、起床時間まで浅いまどろみに身を委ねた。


その直後、彼女の文机の上に置いてあった鏡が音も立てずに揺れる。
暗い夜明け前の部屋を映す筈のその鏡の中が、突然渦を巻くようにぐにゃりと歪み、澄姫の夢に出てきた女…新木心愛が映った。
心愛は穏やかに眠る澄姫に必死で手を伸ばして何かを叫ぶが、音も声も聞こえない。
まるでガラスを隔てたような鏡の中で、狂ったように爪を立てて叫び続けている心愛。
忍術学園にいた時とは比較にならない形相の彼女…その肩に、ぬっと伸びてきたのは真っ白い手。
真っ白なその手に引かれて、彼女はあっという間に闇に消え、鏡面に一筋のひび割れを残した。



−−−−−−−−−−−−−−−−
ちゅんちゅん、と小鳥のさえずりが耳に届き、澄姫はゆっくりと目を開ける。
くぁ、とひとつ上品にあくびを零し、寝癖一つないサラサラの髪の毛をかき上げて体を起こした。

「んー…今日も良い天気ねぇ…」

夜着のまま部屋の扉を開けて、早朝の空気を招き入れる。
清々しい気分の彼女はぐっと伸びをすると、着替えをするため扉を閉めた。
夢のことも、昨日までの妙に霞がかる記憶も、すっかり忘れて。



いつもの装束に着替えて食堂に向かう。
毎朝の如く賑やかしい食堂では、相変わらず眠そうな井桁や、友人と楽しそうに朝食を取る青、桃、萌黄、紫、群青、深赤、深緑がそれぞれ固まっていた。

「あ、澄姫おはよう!!こっちこっち!!」

奥から元気よく手を振って、大きな声で彼女を呼ぶ深緑…七松小平太。
おばちゃんから朝食を受け取った澄姫は、小さく笑って彼らのいる机に足を向けた。

「姉上、おはようございます」

「あ、澄姫先輩、おはようございます」

途中、弟の滝夜叉丸や委員会の後輩である竹谷八左ヱ門が挨拶してきたので、澄姫はゆったりと微笑みながら「おはよう」と返す。
この6年間、繰り返してきたようなその光景。
澄姫は何ともいえない幸福を感じたが、悟られないように仙蔵の隣にそっとお盆を置き、音を立てずに腰掛けた。

「おはよう、仙蔵」

「ああ、おはよう」

そう挨拶を交わした2人の周りは、眩いばかりの輝きに包まれる。
まさに美男美女…と、どこからか声が聞こえた。
そんな言葉を優雅に聞き流し、ふっくらした米を口に運んでいた澄姫だが、ふと思い出したように、朝食のお味噌汁をひっくり返した伊作の面倒を見ていた留三郎を呼んだ。

「留三郎、ちょっと聞きたいんだけど…」

「なんだ?珍しいな?」

「珍しいは余計よ。あのね、朝起きたら使っていた鏡にひびが入っていて…確かにもう何年も使っているものだけど、いきなり割れるものかしら?」

「あー、まぁ新品ならともかく何年も使ってたなら、湿気とかで木枠が歪んで鏡面を圧迫して、それが蓄積されて結果的に突然割れるってことはあるぜ」

「そう…残念ね、気に入っていたのに…」

ほんの少し気落ちしたようにそう呟いた澄姫に、仙蔵が苦笑した。

「あぁ、あの漆塗りに蝶が描かれていたやつか…散々自慢していたな」

「そうよ、あの鏡は私の入学祝にと滝がくれたものだったのに…」

「へぇ!!滝夜叉丸がか!!」

残念そうな澄姫の呟きに反応を示したのは、黙々とご飯をかき込んでいた小平太。彼は正面に座る伊作の顔にご飯粒を盛大に飛ばしながら、物珍しそうに大きな声でそう言った。
そんな小平太に引き攣った笑いを向けて、澄姫は頷いた。

「…小平太、ちゃんと飲み込んでから喋ろうね」

「あ、いさっくん、すまんすまん!!」

そう謝りつつも、優しく諭す伊作にまたもやご飯粒を飛ばす小平太だった。

「でもどうしようかしら…鏡は、流石に直せないわよね?」

「木枠ならともかく、鏡面は流石に無理だな」

どんどん米粒塗れになっていく伊作を哀れに思い、澄姫は体育委員会所属である弟の話を切り上げて、手拭で伊作の顔を拭う留三郎に問いかけた。
しかしいくら修繕が得意な用具委員会委員長でも、割れた鏡は直せないようで、申し訳なさそうにきりりとした眉を下げてすまん、と片手を挙げる。
そんな留三郎に、澄姫は満面の笑みで緩く首を振った。


「いいのよ、留三郎は不能だものね」

衝撃的な彼女の発言に、傍で食事をしていた群青たちが揃ってお茶を噴いた。

「誤解を招く発言をするな!!しかも朝っぱらからやめろ!!」

「あら誤解だなんて…私は真実を述べたまでよ?」

そう言って、悠々とお味噌汁を啜る彼女に、留三郎は地団駄を踏みながら、ニタニタとこっちを見て笑っている尾浜勘右衛門と鉢屋三郎に違うからな、誤解だからなと叫んでいた。

「…騒がしいぞ」

そこにひょっこりと、恐らく今まで鍛錬をしていて風呂に行ってから食堂へ来たのだろう文次郎がお盆を持って現れた。
澄姫は笑いを堪えている仙蔵の震える手から零れそうになっていたお味噌汁を取り上げながら少し席を詰めてやった。

「おはよう文次郎、今日も隈が凄いわよ」

「ほっとけ」

ぶっきらぼうにそう言って、荒々しくお盆を置き、澄姫の隣に腰掛ける。
そして徐に、既に冷めているであろう味噌汁の中にボチャボチャと氷を入れた。
黙ってそれを見ていた彼女は仙蔵と揃って溜息を吐く。

「…貴方、夏が近いとはいえ何で既に冷め切ったお味噌汁に氷を入れるの?」

「鍛錬だ。忍者たるものいつでも暖かい飯が食える訳ではないからな」 

「お前は戦場でも味噌汁を飲むのか」

「飲まねばならんのならば、俺は飲む」

「…そうか」

絶対零度の瞳で、仙蔵と澄姫は文次郎を見た。
しかしそんなものは何処吹く風とでも言うように、文次郎は冷たい味噌汁を啜りながら問いかけた。

「で、さっきは何をそんなに騒いでいた?」

「あぁ、留三郎が不能だって話をしてたのよ」

ゴフ、っと味噌汁を鼻から噴いて、口からもダラダラと零しながら文次郎は澄姫を見た。
そして、静かに頷いた彼女から、ゆっくりと留三郎に視線を向ける。
その時の文次郎の顔は、可哀想なものを見るそれだった。

「バッカちげぇよ!!誤解だっつってんだろ!!そんな顔で見るな!!!」

「…お前…その歳で……」

「違うっつてんだろ鍛錬馬鹿!!!」

「んだとこの……い、いや、今日は…止めておく…」

「止めろ!!!その優しさ痛ぇよ!!!」

そんな珍しい犬猿の様子を楽しげに笑って見ていた澄姫と仙蔵。
騒がしい朝だが、そんないつもの風景。

「ほらほら、早くしないと授業が始まるよ!!お残しは許しまへんでぇ!!」

食堂のおばちゃんの声が、楽しそうに響いた。




−最初の天女編 完−


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