逆鱗

生物委員会の1年生を校舎の各教室へ避難させた文次郎と小平太が急いで飼育小屋に戻ると、そこには泣き喚く心愛と、笑顔で武器を振るう澄姫が居た。

「どういう状況だ、これは」

「我らが女王様直々の、仕置きだ」

口角を引き攣らせた文次郎が仙蔵にそう尋ねると、彼は至極愉快そうに述べた。

「留三郎は何を笑ってるんだ?」

「笑ってねーよ震えてもいねーけどな!!」

楽しそうにそう問いかけた小平太に留三郎が強がる。



「酷い、痛いよぉ、ママぁ…パパぁ…!!」

「酷いのは貴女でしょ?聞いたわよ、2年生の子をぶとうとしたんですって?」

「だっ、あれはあいつが!!そもそも全部アンタが悪いんだぁぁ!!!」

「まぁ、私貴女に何かしたかしら?」

「なっ、こっ、アンタが私の居場所を盗ったんでしょ!!!この阿婆擦れ!!」

至って冷静に挑発を続ける澄姫と、這い蹲りながらもギャーギャー喚く心愛を目前に誰も止めようとしない、わりかしフリーダムな6年生に半助は胃を押さえ、苦しそうにしながらも、長次に告げた。

「中在家、そろそろ止めるぞ…」

それにこくりと小さく頷き、長次は未だ武器を掲げる澄姫を背後から優しく拘束した。
そんな甘い拘束に半助はちょっと羨ましい気持ちを抑え、砂を吐きながらも、心愛を起こし、落ち着きなさい、と宥める。
至る所に痣が見受けられたので、半助は待機していた伊作に心愛の治療を指示しようとした、その時

「っなによ!!忍者の癖にこんなものつけて!!」

半助の腕を振り解き、心愛は澄姫の髪から簪を奪い、思いっきり地面に叩きつけた。
あまりにも突然のことで、澄姫も長次も、半助も、その場にいた全員体が動かなかった。
かしゃん、と軽い音を立てて、簪は砕け地面に翡翠色が散らばる。

「ぁ……」

呆然と、簪の破片を見つめる、澄姫のあまりにも悲壮な声に、心愛は不快に笑い、破片を踏み躙る。

「アハッ、あははは、キャハハハ!!あーぁあ!!壊れちゃったぁ!!私にあんな酷いことするからよ!!そうよ、これは天罰よ!!あっははは!!」

けたけたと狂ったように笑う心愛を、八左ヱ門は蒼白な顔で見た。




「こ、ここから…逃げたい…」

その怯えまくった八左ヱ門の呟きに、雷蔵が首を傾げる。

「ハチ、突然どうしたの?」

「あ…あの簪、中在家先輩からの贈り物だって、さ、さっき、きき聞いた…」

「「「「ひっ…」」」」

どもりまくった八左ヱ門の説明に、他の4人も顔面蒼白で引き攣った悲鳴を上げる。
その悲鳴に共鳴するかのように、飼育小屋の獣たちが吠えた。
虫たちは小屋の隅に固まり、ごそごそと蠢く。
その様子を見た八左ヱ門は、だくだくと滝のように汗を流しながら、祈りを込めて小平太を見た。

「ぁ、だめだ澄姫先輩完全にキレてるわ」

そう死んだ魚の目で呟く八左ヱ門の視線の先には、獣と同じぎらついた眼をした小平太がいた。

「俺、今日の夜は冷奴定食って決めてるんだー」

「兵助!!フラグ立てちゃダメぇぇ!!」

「あはっ、あはっ、あはへへはひゃは」

「三郎が壊れた!!?」

殺気に当てられた小平太を確認し、5年生たちは各々パニックを起こした。
あえてフラグを立てる兵助に、白目を剥いて笑い出す三郎。驚く勘右衛門と雷蔵に泣き崩れる八左ヱ門。
ある意味地獄絵図となった飼育小屋の前だが、それよりももっと恐ろしい地獄がこれから始まろうとしている。
6年生たちは全員固唾を呑み、澄姫の一挙一動に全神経を集中させていた。


「あははっ、きゃははは、あっははば!!!」

けたたましい心愛の笑い声に、突如鈍い音が混ざった。
砂埃を立てて激しく吹っ飛ぶ心愛を前に、間髪入れず彼女の頭を踏みつける長い脚。

「いだ…ひ、だぃぃ…」

地面に頭を押し付けられながらも、心愛は何が起こっているのか全く理解できない。ただひたすらズキズキと痛む左肩と、生暖かい口元を押さえて呻く。
そんな彼女に、温度を感じさせない声が降り注いだ。

「煩い」

その声のあまりの冷たさに、騒いでいた5年生たちも口を噤む。
絶対振り解かないと思われた長次の柔らかな抱擁を目にも留まらぬスピードで抜け出し、澄姫は瞳孔が開ききった眼で心愛を見下している。
それを目の当たりにした半助は、全身の血の気が引く音を確かに聞いた。

「まずい…澄姫を止めろ!!」

その半助の声で、仙蔵がはっとして文次郎に叫んだ。

「小平太もだ!!」

その声に意識よりも体が反応したのか、飛び上がろうとした瞬間の小平太を文次郎と伊作が間一髪で押さえつけ、同じく長次と留三郎が澄姫の体をしっかりと掴む。
そして半助が心愛を澄姫から引き剥がし、確実に距離を取る。

「大丈夫よ殺したりしないから邪魔しないで頂戴」

いつものように冷静に、しかしいつもとはどこか違う澄姫の呟きに、留三郎の背筋を悪寒が駆け抜ける。
澄姫は半助に抱えられた心愛をじっと見つめ、何とか2人を振り解こうと身を捩る。
そんな彼女の腕を掴みながら、長次が首を緩く振って小さく呟いた。

「…いい、止めろ」

「いいわけないでしょう!!」

その声にガバッと振り向き、澄姫は長次に掴みかかりながらそう怒鳴った。
その剣幕に、留三郎は驚きを隠せない。
普段冷静沈着な彼女からは想像も出来ない程、必死な形相。
しかし、長次は怒りでぶるぶると震える澄姫の拳をそっと自身の大きな掌で包み、ゆっくりと、再度、繰り返す。

「…いいん、だ。やめて、くれ…澄姫」

そのあまりに悲しそうな呟きに、彼女の拳からふっと力が抜け、頭を垂れた。

「いいわけ、ない…だってあれは…長次が…」

ボソボソと聞こえてきたその呟きに、小平太の上に圧し掛かっていた伊作が驚いて声を上げた。

「もしかして、あの簪は長次からの贈り物なの?」

「そう…だけど、それだけじゃないわ」

伊作の問い掛けに少し顔を上げて、小さな声で澄姫は話し出した。

「先日、長次と町へ行った時、くのいち教室で話題の本屋へ寄ったの。長次は本の話でそこの店主と意気投合して楽しそうだったわ。いくつか本を購入して帰ろうとした時、店主が彼を呼び止めて、ある一冊の本を差し出したの。それは珍しい本でね、その店主と五十数年連れ添った奥様が生前大切にしていた本だったそうよ…」

「…店主は、その本を、私たちの勉学に役立てろと、くれた…その時に、聞いた、妻との思い出を、覚えていてくれれば嬉しいと…」

長次が小さな声でそう続け、ちらりと隣で俯く澄姫を見た。

「…本と、澄姫を、大切にしろと…」

「その思い出の本と共に、彼が譲り受けた…簪よ」

そう呟いて心愛を睨みつける澄姫の腕を離し、長次は地面に散らばる翡翠色を大事そうに拾い始めた。

「…店主は、言った。幸せになれる、ご利益付だと…今度は君が、大切な人に、贈りなさいと…」

2人から語られたその話に、全員がしんみりした空気に包まれる。
八左ヱ門と伊作に至っては、ぐすぐすと鼻を啜りながら目頭を押さえていた。
老夫婦の大切な思い出の簪を、知らなかったとはいえ、怒りのままに壊してしまった心愛。

彼女を支えていた半助は、静かな声で彼女に告げた。

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