馬に蹴られる授業中

「演習、開始!!」

先生の大きな声が響く裏々山にて、深緑の装束が各々得意武器を構えてくじで決まった対戦相手と睨み合う。 その中に混じる深赤も、武器を構えて対戦相手である男を睨み付けた。

「今日という今日は、負けないわ!!」

長い睫で縁取られた美しい瞳をきりりと正面に据え、桜色の艶やかな唇が強気な言葉を紡ぎだす。
絹のような髪を風に靡かせ構えた深赤に、しかし対戦相手の男はあろうことか武器を持つ手で顔を覆い、何かを堪えるように大きく深呼吸。
その態度に酷くショックを受けた深赤は、すべらかな頬に朱を走らせて構えていた両の拳をぶんぶんと振り回した。

「ひ、ひどいわ長次!!どうして呆れるのよ!!」

「…いや…呆れたのではなく…」

大きな体躯からは想像もできない小さな声で囁いた男、言わずもがな、彼女の恋仲である中在家長次は気を取り直すように得意武器である縄標を構えなおすと、鋭い眼で彼女を射抜き、ともすれば聞き逃してしまいそうなくらい小さな声でもそもそと呟いた。

「…そんな可愛らしい事を言っても…手加減は、してやれない…」

ギリィ、と誰かが歯ぎしりをする。
積み上げた6年間でどんな小さな音でも拾えるように訓練した彼らは、勿論長次の小さな声も聞き逃さずしっかり聞き取れるわけで。
さらに言えば当然、彼に心酔している深赤、忍術学園くのいち教室平澄姫が愛しい男の声を聞き漏らすはずもなく。

「か、可愛いだなんて、そんなぁ…っ」

途端に赤く染まった頬を押さえて恥じらう澄姫は、身を捩りながら目の前の男を熱っぽく見つめる。
その視線に照れたのか、長次もまた荒々しい傷が目立つ頬を僅かに染め、ふいと顔を逸らした。
蔓延し始めた桃色の空気に、学園一ギンギンに忍者している潮江文次郎がやってられるかとばかりに袋槍を地面に叩きつければ、いいネタを見つけたとばかりにニヤけた食満留三郎が僻みかと彼をからかい取っ組み合いの喧嘩が始まる。
止めに入った善法寺伊作が2人のクロスカウンターに巻き込まれ、立花仙蔵と七松小平太はそれを見て爆笑。
今までの、いつも通りの忍術学園の光景。 妙な騒動は時折起こるものの、それらをいつだって自分たちの力で乗り越える、穏やかな箱庭の生徒たち。

「コラーッ!!演習だと言ってるだろうが!!」

先生に怒鳴られ気を取り直した彼らは、各々対戦相手に向き直り、武器を構える。
それに倣い、澄姫もまた武器を手に気を取り直して長次に飛び掛かる。 お互いに中遠距離向きの武器を得意としているが、体格的にも恵まれている長次は接近戦でも後れを取ることはなく、彼女の脚から放たれた蹴りを左腕だけで受け止めた。
しかしそれは想定の範囲内だったようで、攻撃をはじかれた澄姫は慌てることもなく身を捩り、しっかりと地面に降り立つ。
その勢いをばねにして再度彼に飛び掛かり、腕を取ろうと白魚のような指を深緑の装束に引っ掛けた彼女は、避けるように一歩前に出てきた長次に蕩けた笑顔を向け、甘く囁く。

「長次ったら、積極的ね」

蜜のような言葉とは裏腹に、とんでもない速度で彼の腕を取った澄姫は目にもとまらぬ動きで身を寄せた大きな体の力を借りて鋭く投げ飛ばした。
あわや地面に叩きつけられる、といったところではあったが、長次もまた沈黙の武神とまで謳われる男。しなやかな動きで身を翻し、見事に体勢を立て直す。
好敵手というにはあまりにも甘く、恋仲というには些か激しい戦いに、決着のついた生徒たちが徐々に2人の周りに集まり始めた。

「珍しいな、素手でやりあってるぞあいつら」

「お互いに怪我をさせたくないんじゃない?」

早々に対戦相手を叩きのめした小平太と、早々に持ち前の不運を発揮し対戦相手に叩きのめされた伊作が呑気に腰を下ろして観戦する中、一旦距離を取った長次と澄姫がお互い見つめあう。
と、次の瞬間澄姫が桜色の唇の前で細い指を組んで微笑んだ。

「長次って、本当に強いのね。素敵」

対戦相手から貰うには甘すぎる言葉に、彼の耳が赤く染まる。それに気づいているのかいないのか、澄姫は熱っぽい視線を彼に向けたまま歌うように言葉を紡ぎ続けた。

「凛々しくて強くて頼り甲斐があって、でも繊細で優しい…そんな長次が、大好きよ」

女の子に、それも学園一…いや、それ以上の美貌を誇る澄姫に頬を染めて熱っぽく褒められ、悪い気がする男がいるだろうか。
余程の趣味でない限り、まず間違いなくいないだろう。それが恋仲となれば尚更効果は覿面。
現に彼女の前に立つ男は、普段学園一無表情と言われているがその顔、いや、顔と言わず耳どころか首まで赤く染めて、羞恥を隠すように俯いてしまっている。
だから彼は、苛烈にきらめいた彼女の瞳に気付かなかった。
そこに好機を見致した澄姫が地面を蹴り、一気に距離を詰めた。

「本当に大好きよ、長次…だから、悪く思わないで頂戴ね」

素早く回された細い腕が、長次の帯を絡めとる。 そのまま体重を乗せて投げ飛ばそうとした。
だが、その細腕は無骨な腕によって掴まれる。

「…悪い気はしない…だが…」

負けてもやれないと呟いた彼は、即座に反応して顔をあげ次の戦略を立て始める澄姫の艶めく唇に、そっと己のそれを重ね合わせた。
決着の時を確信して静まり返っていた裏々山の演習場所に、ちゅっと軽い音が響く。
啄むだけの軽い口づけに一瞬あっけにとられてしまった澄姫は、状況を理解した途端顔を真っ赤に染めて腰を抜かし、その場にへたり込んでしまう。

「な、あっ、えっ…」

「…どうした、物欲しそうな顔をして…」

「いっ、今、あっ、」

「…もっと、して欲しいのか?…澄姫…」

動揺か、それとも羞恥か。 うまく言葉を発せられない澄姫が真っ赤な顔のままオタオタしていると、珍しいことに長次は友人たちの目の前だというのに彼女に顔を寄せ、低い声で囁いた。
魅惑の重低音で名前を呼ばれた澄姫は、あっという間に腰が砕けてしまい、蚊の鳴くような声で参りましたと告げるのが精いっぱい。

「なんか件の事件以降、積極的になったよね」

その光景をほほえましく眺めていた伊作が呟いた一言。 同意を求めるように隣に立っていたはずの同室の男を見やれば

「ケッ」

「ケッ」

留三郎はこの世の全てを憎んでいるような表情で、犬猿の男と共に地面に唾を吐き捨てていた。
苦笑する伊作を尻目に、長次は腰が砕けて建てなくなった澄姫を横抱きにして木陰へと移動する。 抱き上げた体はとても細くて柔らかく、腕を擽る髪が風に靡き、動いたせいで滲んだ汗すら甘く香るような気がして、彼は愛おしそうに鋭い眼を細める。

「ずっ、ずるいわ長次、あ、あんなの、絶対に、勝てないじゃない!!」

「…先に仕掛けたのは…澄姫だろう…」

悔しそうな言葉とは裏腹に瞳を潤ませた澄姫は、彼の言葉にぐうの音も出ない。
羽のように軽い体をそっと木陰に降ろした長次は、傷の多い指で彼女の顎をそっと持ち上げ、まだぶちぶち文句を紡ぎ続けている甘い唇をそっと塞いで強制的に澄姫を黙らせる。
そしてこっそり薄眼で伺い見た彼女の美しい顔が満足そうに蕩けているのを確認し、くっと喉の奥で笑うのだった。

[ 253/253 ]

[*prev] [next#]