とある逢瀬の日の話。

冬特有の、きんと澄んだ空気の朝。
休校日のため自主鍛錬に励む生徒たちが次々と裏山に出掛けていき、体を休める生徒はまだ夢の中。
そして、休みを利用して町へ出かけていく生徒たちは心を躍らせ身支度を整えている。
その中に含まれる平澄姫は、無くなりかけているお気に入りの紅を小指ですくい、手入れされた瑞々しい唇に乗せていた。
夜空のような深い青色の小袖を纏い、気合を入れて施したお化粧を何度も何度も鏡で確認した彼女は、にこりと笑って最終確認。
もともと派手な顔立ちをしているので、くどくなりすぎないように意識しているメイクに納得がいったのか、鏡の中の自分を今日も可愛いと褒め、朝焼色の肩掛けをふわりと羽織っていざ出陣。
心地よい鼻歌と共に、細越に結ばれた桜色の帯が今の彼女の心のようにふわりと舞った。



待ち合わせの時間より少し早いが、くのいち長屋を出て正門へ向かうと、そこには既に愛しい中在家長次が待っていて、自然と歩が速くなる。
駆け寄り待たせたことを謝ると、彼は普段通りの無表情で、私が早すぎただけだから気にするなと呟いた。
彼の優しさに頬を染め、満面の笑みを浮かべた澄姫は手早く出門表にサインを済ませ、正門を出る。
山道を少し下ったところでこっそり隣を歩く長次を伺い見れば、彼もまた柔らかな視線で彼女を見つめていて、ごく自然な仕草で彼女の手を握る。
友人にしては近過ぎて、恋仲にしては少し遠いと感じるこの距離。けれど澄姫は、この距離が大好きだった。
町へ着くと2人は雑貨屋や本屋をぶらぶらと渡り歩き、歩き疲れたら茶屋へ入り、他愛もない話をして、また店を見て回る。
目的も何もないけれど、一緒に居られることが嬉しい澄姫は始終美しい笑顔を浮かべていて、そんな彼女の姿を見つめる長次も、とても穏やかな目をしていた。

「そういえば、もう紅が無くなりかけていたんだったわ。ちょっと見ていっても良いかしら?」

長次の大きな手を引いて、澄姫が雑貨屋を指さす。この先はもう町の外れになってしまうので、ここを最後にするかと決めて頷いた長次は、並べられた色とりどりの紅をあれこれ試している彼女の傍らに立ち、陳列棚を覗き込む。
好んでいる赤色もやはりよく似合うと思う。時々つけている朱色は可愛らしい印象を受けるし、濃い桃色は彼女の白い肌をより一層引き立てていて素敵だ。そんなことを考えながら陳列棚を見ていた長次の目に、ひとつの紅が飛び込む。

「…これは…どうだろうか…」

囁くように勧めてみれば、澄姫は驚いたように瞳を瞬かせ、少しだけ困ったように眉を下げてその紅を手に取った。

「淡い桃色…とても素敵だけれど、私には似合わないと思うわ…」

派手な顔立ちで、唇が淡い桜色をしている彼女は、ぱきっとした色が映えるタイプ。それを自覚しているからこそ、濃い色の紅を好んでつける澄姫。可愛らしい色が嫌いなわけではないけれど、自分には似合わないと思い、あまり選ばない。
しかし隣に立つ恋仲は、意味が分からないといった表情をして彼女を見つめていた。

「…澄姫に…きっとよく似合う…」

「…そう?」

真摯な眼差しで一片の疑いもなくそう言い切られてしまい、彼が言うならそうかもしれない、と思った彼女は、見本の紅の横に置いてあった半紙で紅を拭って唇から色を落とすと、薄い桃色の紅を小指ですくい、唇に乗せた。
彼女の予想通り、淡い桃色はもともとの唇の色に負けてあまり発色しない。普段濃い色を見慣れているため余計にがっかりしてしまった澄姫は、やはり少女のような色は自分には似合わないと瞳を伏せた。

「…やっぱり、色があまり乗らないわ」

残念そうに言えば、不意に伸びてきた大きな手が彼女の顎をそっと掴み、上を向かされる。
絡んだ視線に驚いていると、じいっと彼女の唇を見つめていた長次が、はにかんで目尻を下げた。

「…赤もいいが…やはり淡い色も、よく似合う…」

唇に色があまり乗らない分、まるで瑞々しい桃の果肉のように艶めきが増していて、かぶりついてしまいそうだと耳元で囁かれた澄姫は、真っ赤になって俯き、蚊の鳴くような声で、ばか、と呟く。



火照りが冷めきらないまま紅を購入して店を出る。
気付けば辺りはすっかり日が暮れ、昼間の喧騒が嘘のように消えていて、静まり返った夕暮れの町はまるで時が止まっているかのように感じる。

「……澄姫…」

名を呼ばれ顔を上げれば、夕焼けに包まれている長次が手を差し出していた。
その手を取り、名残惜しさを感じつつも学園への帰路を辿る。
その途中で見上げた空にはさそり型の星座が昇っていて、楽しい時間はどうしてこんなにも早く過ぎ去ってしまうのかと澄姫の胸を切なく締め付ける。
ちらちら輝き始めた星の川に、もう少しだけ一緒に居られますようにと心の中で祈った彼女の気持ちが伝わったのか、長次が振り返る。
すっかり暗くなった夜道でも、何故かはっきりと見えた、優しい眼差し。
しっかりと手を繋ぎなおした澄姫は、彼の腕に身を摺り寄せて山道を歩く。

「…名残惜しいわ」

「……また、出掛ければいい…」

お互いの声が耳を擽り、真っ暗な森の中、誘われるようにゆっくりと唇が重なった。


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