ときめきホルモン

ある冬の日の夜更け。
同室の食満留三郎が夜間鍛錬に出掛けるのを見送った善法寺伊作は、乳鉢を取り出して委員会活動中にできなかった調薬を始める。
仄かな明かりが冷たい隙間風に揺れる中、ごりごりと薬草をすり潰しては混ぜ、混ぜてはすり潰すという行為を何度か繰り返した頃、突然扉を叩く音が耳に飛び込んできた。

「はーい」

軽い返事をして扉を開けると、そこには無愛想な大男が闇の中でも煌めくほど美しい女を伴って立っていた。

「やあ長次、どうかしたかい?」

彼を知らないものが今伊作の立場だったなら、いろんな意味で気を失うほど驚いただろうが、彼と6年間ともに学んでいる伊作は柔らかい笑みを浮かべて寒いからとすぐさま二人を部屋に招き入れる。
扉が合わさる音を背後で聞いた長次は、部屋の奥に澄姫を座らせると、伊作が何かやらかす前に調薬中の乳鉢やら薬草やらをまとめて文机の上に片付け、それから数冊の本を腰を下ろした彼の膝の前に差し出した。

「もう読んだのかい?」

「…ああ…とても…面白かった…」

「そう?ならよかった」

そう言って差し出された本を受け取った伊作は、澄姫の瞳が興味深そうに動いたことに気が付き、小さく笑う。
長次の恋仲である彼女は、心酔している男のことなら何でも知りたがる節がある。おそらく今回も例にもれず、珍しく『面白い』という感想を口にしたこの本に興味がわいたのだろう。

「澄姫」

「それ、何の本なの?」

「言うと思ったよ」

伊作の声に被せるくらいの勢いで問いかけてきた澄姫に、笑いながら本の表紙を見せてやれば、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「医学書?」

「そう」

伊作からの短い返答で、澄姫はますます不思議そうな顔をして瞳を瞬かせる。
その仕草が少女のようだと微笑ましく感じた伊作は、積まれた本のうちの一冊を手に取り、ぱらぱらと捲りながら、長次と顔を見合わせて笑った。

「女の子は恋をすると綺麗になる、って聞いたことあるだろ?」

「くのいち教室の女の子たちみたいなことを言うのね」

「実はあれ、科学的根拠があるって知ってる?」

「そうなの?」

何の脈絡もない伊作の言葉に、普段通り辛辣な一撃をお見舞いした澄姫だったが、続いた一言に表情を一変させ、わくわくしながら続きを待つ。
大層可愛らしいその様子に無言のまま胸を撃ち抜かれてしまった長次は、話してやってくれ、と視線だけで伊作にせがむ。
全く本当に彼女にだけは甘いんだからと笑ってしまった伊作はというと、得意分野ということもあり、なるべく混乱しないように理解している本の内容を噛み砕きながらゆっくりと話し始めた。

「恋をするとね、脳内神経伝達物質であるPEA(フェニルエチルアミン)というときめきホルモンが活性化するんだ。これの濃度が増すと快感ホルモンであるドーパミン・幸福ホルモンのセロトニン、そして陶酔感を感じるホルモンのエンドルフィンといった高揚感をもたらすホルモンが活性化する。これによって脳内の恋愛幸福感が高まり、女性に欠かせないエストロゲンがスムーズに分泌されるんだよ」

「エストロゲン?」

「簡単に言うと女性ホルモンだね。これの分泌で女性は女性らしい体形になったり、肌や髪の艶がよくなったり、からだの周期が整えられたりするんだ。これが『恋をすると女の子は綺麗になる』の科学的な根拠」

「そうなのね。それって、ときめいていたらずっと分泌されるものなの?」

「残念ながら、ときめきホルモンが活性化するのは恋愛初期だけで、このホルモンは個人差があるけど早ければ3ヶ月で落ち着いてしまうんだ。恋人ができても3ヶ月で別れてしまうってよく聞くよね、あれはこのときめきホルモンの分泌が落ち着くから、恋愛初期の頃のときめきを感じられなくなるってことなんだよ」

そこまで伊作の説明を聞いた澄姫は、今の説明をもう一度自分の中に落とし込んでから、こてんと首を傾げた。

「でも私、今でも長次に毎日ときめいているわ」

「がっ…!!」

当然の疑問といえばそうなのだけれど、無邪気な顔をして破壊力抜群の台詞をぶち込んできた彼女に、長次は言葉にならない声をあげて撃沈。
その様子につい笑ってしまった伊作は、そんなこと知ってるよと前置きした上で、彼女に教えてやる。

「ときめきホルモンは一定期間で落ち着くだけで、なにも分泌が止まるわけではないんだ。つまり気持ちが冷めなければ、いつだっていつまでだって分泌されるんだよ」

「つまり、どういうこと?」

「わかりやすく言えば、ときめきホルモンの分泌が落ち着いた時はマンネリ期ってこと。毎日お互いに惚れ直し続けている君達には一切無縁の言葉だろ?」

悪意が微塵も込められていない伊作の一言に、長次は頬を赤らめ、澄姫は酷く納得したのか頷き続けている。

「因みに、分泌量の違いはあれど男でもときめきホルモンは活性化するし、しかもそれは女性よりも振れ幅が大きいんだ。つまり、男性の方が女性と比べて一目惚れをしやすいということになるんだけど、これは身をもって知っているから澄姫に説明する必要はないよね。それと、実はこのときめきホルモン、実は2次元相手でも活性化するんだ。だから同次元に相手がいなくても、画面の向こうの芸能人やアイドル、俳優さん、果てはアニメやゲームのキャラクターなどに対してもときめけば活性化する」

独り言のようにつらつらと語った伊作は、言葉が区切れた頃に、どうして長次が珍しく医学の専門書…しかも、こんなチープな恋愛小説のネタのような部類の本を借りたいなどと言ってきたのかを思い出して、つい表情が綻んでしまう。
彼の大切な恋仲は、絶世の美女と言っても過言ではない。それは自他ともに認めているし、実際澄姫は綺麗な女性だと思う。
けれど、長次にとってそれだけではないんだろう。
きっと彼の瞳に映る澄姫は、彼以外が見ている澄姫よりも、もっともっと美しいのだ。
その理由を知りたくて、長次は人間の身体の構成物にまでたどり着いた。

「…恋って、理屈じゃないんだけどな」

好きな女の子が自分と恋愛をしてどんどん綺麗になっていくなんて、自慢以外の何でもないというのに、理屈っぽい彼はそれでは納得できなかったのだろう。

「長次、もういいじゃないか。大好きだから誰より綺麗で一番可愛く見えるって素直に認めて言ってあげた方が、澄姫は喜ぶと思うよ」

「「なっ…!!!」」

そんな意地っ張りな友人に、少しだけ妬みを混ぜ込んだ意地悪をひとつ。
そんな風に思える相手といつか自分も巡り合いたいものだと、伊作は笑った。

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