夜の帳が下りた後

もうすぐ日付も変わるかという時刻。
6年長屋の一室では、今宵鍛錬には向かわなかった中在家長次が静かに本の頁を捲っていた。
夏本番を目前に控え、とても寝苦しい夜だというのに、長次は顔色一つ変えずに半刻ほど前から本に視線を落としている。 そんな彼の腕の中で、深赤が身じろぎをひとつ。

「…やっぱり、くっついていると暑いわ」

腕の中からそう言ってゆっくり這い出してきたのは、彼の恋仲である平澄姫。
少しだけ汗ばんでしまった夜着の胸元をはしたなくない程度に寛げ、首に張り付いた長い髪を美しい指で持ち上げる。
仕草全てが絵になる彼女は、微かに上気した頬に掌を当てながら無言のままの男を見つめた。
仄かな明かりに照らされて影を落とす睫は意外と長く、頬に荒々しく残る傷は相当深かったのだろう、薄暗い中でも目に付く。
明かりを反射して優しく艶めく栗色の髪は、彼の心根のようにまっすぐで。
知らずのうちに熱っぽい溜息を吐き出してしまった澄姫は、ふと本から視線を上げた長次と目が合い、せっかく冷めてきた頬を赤く染めることとなった。

「……見すぎだ…」

「みっ…!!」

とてもわかりにくいけれど、それでも恋仲である彼女にははっきりとわかる程度にはにかんだ彼は、そう呟いてまた本に視線を落とす。
自分でも気づかないうちに熱烈な視線を送ってしまっていたことに今更ながらに気が付いた澄姫は、ますます顔を真っ赤にして勢いよく彼から顔を背け、熱を孕んだ空気を舞った髪を耳の上でくしゃりと握る。
傍にいるだけなのに、ちょっと視線を向けられただけだというのに、頬が、耳が、手が、からだが、とても熱い。
髪を滑った指が、のぼせたように真っ赤になってしまった頬に触れる。
その時、彼女はふと思った。
いつもいつも余裕たっぷりで、自信満々で、何をやっても完璧な澄姫。けれど、いざこの男の前に立つと、どうしても胸がいっぱいになって言葉がうまく出てこない。
彼の一挙一動に頭もいっぱいいっぱいで、彼をときめかせる愛の言葉一つ満足に吐き出せない。そこら辺にいるどうでもいい男相手ならば、余裕で振り回せるというのに。
それがなんだか悔しくて、いや、悔しいというよりも、なんだか癪に触ってしまった。
自ら言うのはどうかとも思うが、こんな美女と、こんな狭い部屋で、二人っきりだというのに、そういえば長次はずっと本に夢中。
その大変失礼な事実に気が付いた澄姫はぷくりと頬を膨らませ、彼の夜着の背中をつんと引っ張る。
すると、本から視線を上げた長次は、静かな瞳でしばらく彼女を見つめた後、いい子にしていなさいと言わんばかりに大きな掌を彼女の頭に乗せた。
その行為で、ますます澄姫の頬は膨らんでいく。無言のまままた本に視線を落としてしまった長次の背中をつつき、肩をゆすり、腕を引っ張り、首に纏わりつく澄姫。 けれど彼はその行動すべてをやんわりと流し、ついには本から視線さえあげなくなってしまった。

「もうっ!!」

とうとうしびれを切らした澄姫が声をあげ、彼から強引に本を取り上げる。
突然の暴挙に少しだけ驚いたのか、目を見開いて顔を上げた長次に、澄姫は悔しそうに顔を顰めながら、彼の唇に噛み付いた。
しばしの間唇を押し付けていた澄姫は、満足したのかゆっくりと顔を離し、きょとんとしている長次を見て嬉しくでもなったのか、勝気に笑って言った。

「いつも私を好き勝手出来ると思わないで頂戴」

ふふん、とふんぞり返って言い放った澄姫は大層満足気だった…のだが、それはあえて言うならば子供が勝手に仕掛けた勝負に勝手に勝ち誇っているようにも見え、長次の眉間に皺が寄る。
取り上げられた本を奪い返した彼は、それをばさりと文机に放り投げると、ふんぞり返っている澄姫の細腰に腕を回し、ぐいと寄せた。
強い力に引かれて倒れこんできた柔らかい体を抱き寄せて、耳にかかっている絹糸のような髪を無骨な指で掻きあげた彼は、現れた少し赤くなっている耳を見て更に眉間に皺を寄せ、そっと唇を寄せる。

「…それで終わると…思っているのか…」

腰にくる低い声で囁いた彼は、一気に慌てふためきだした澄姫を床に組み敷く。

「あっ、ちょっと、待って、そんなつもりじゃ、私…っ」

「…誘ったお前が…悪い…」

低く小さな声で囁いた長次は、澄姫の柔らかな体に手を這わせながら、片手間に部屋の明かりを消す。
幕を開けた恋人の時間に浮かされ始めながら、澄姫は唇を噛みながら思った。
きっと、長次には一生敵わない、と。
しかし時を同じくして、本の虫とまで言われる自分を本からこうもあっさり引き剥がすことができる澄姫には一生敵わないなと長次も思っていた。

そんな夏の、暑い、熱い、一夜。

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