頼れる後輩

年の瀬も差し迫ってきたある寒い日のこと。
休みを利用して委員会の備品を町へ買い求めに来ていた平澄姫と竹谷八左ヱ門。
必要なものを購入し、学園に帰る前に一息つこうと茶屋へ入ったときのことだった。

「悪いわねハチ、せっかくのお休みに買い物に付き合わせちゃって」

「全然いいっすよ。委員会のことですし、重たいもんもありますから」

長椅子に腰を下ろしながらさらりと下ろしている髪を払い、申し訳なさそうに眉を下げながら微笑む澄姫に、八左ヱ門はいつもの明るい笑顔で答える。

「持てないことはないんだけれど」

「無理することないっすよ」

他愛のない会話をしながら、美しい女と純朴そうな青年はお茶を飲み、頼んだ団子をゆっくり頬張る。傍から見れば澄姫の美貌を除きよく見かける光景なのだが、にこにこと穏やかに言葉を交わす2人の声の後ろで、鋭さを纏った風切音が聞こえていた。
矢羽音、という忍者の暗号会話である。それは2人の朗らかな声の会話とは裏腹に、少々物騒なものだった。

『澄姫先輩、町に入った時から後つけられてますね。見たところ15〜20歳くらいの男みたいっすけど、なんか心当たりありますか?』

『秋頃の実習の時に声をかけてきた男だわ。それ以来付き纏われてちょっと困っているの』

『そりゃまた…なんというか…しつこいっすね』

『そうね、もう2月ほどになるし…少し腕が立つ程度だからって放っておいたのが裏目に出たかしら』

そういって、湯飲みに口をつけた澄姫はちょうど八左ヱ門の肩から後方に潜む男を盗み見て、そっと溜息を吐いた。
そんな彼女に、八左ヱ門はなにかを感じ取ったのか、にかりと笑いながら矢羽音で問う。

『ちなみに、あの男性とはどれくらい会話しました?』

『そうね、初回と…3回目に運悪く顔を合わせたとき、それから逢瀬の時に鉢合わせたのが2回だから…4回ね。いずれも他愛ない挨拶よ』

『その時中在家先輩はどちらに?』

『2回とも席を外していたわ』

『会話の時、そっけない態度とかとってないっすよね?』

『まさか。町中よ?』

まるで尋問のように色々聞いた八左ヱ門は、そこでなるほどと頷き、湯飲みを置いた。そろそろ日が傾き、山には橙が差し始めている。

「そろそろ帰りましょうか」

「そっすね」

そう言って椅子から立ち上がり、会計を済ませた澄姫は荷物を担いだ八左ヱ門と共に歩き出す。その後ろを、ひたひたと男がついてきていた。
それを気配で感じ取っていた澄姫は、町を抜けて森に入った瞬間に撒こうと考えていたのだけれど、ふいに八左ヱ門に腕を掴まれ視線を上げる。

「ハチ?」

「…澄姫先輩、ちょっと」

それだけ言うと、八左ヱ門はぼそぼそと彼女に耳打ちし、目前に迫っていた分かれ道でいかにも別方向だというそぶりで手を振り、長屋のほうへと歩いていった。
残された澄姫は、呆れた顔をしてその背中を見送り、耳打ちされた方角へと歩き出す。
どんどんと中心地から離れ、民家よりも畑などが目立ちはじめた町のはずれ。その移動間、ずっと彼女の動向を探るかのように、男がついてきている。
これだけ人気がなくなったのにもかかわらず声を掛けてこない男に違和感を感じ始めた彼女は、知らずのうちに早歩きになり、こくりと唾を飲み下す。
微かに聞こえる足音、開きも縮まりもしない距離、薄暗くなっていく町。
心に芽生えた小さな不安をどんどんと育てていくそれらの要素に、気付けば喉は渇き、息が上がっていく。どくどくと騒ぎ始めた心臓が痛み始めたその時、指示通りの曲がり角を曲がった澄姫は目を見開いた。

「行き、止まり…?」

三面を壁に塞がれた細い路地。一体何のつもりでこの道を指示されたのか理解できない彼女は、ざり、と土を踏む音で肩を跳ね上げた。
勢いよく振り返れば、そこには件の男の姿。
沈みゆく赤い太陽が彼の背中を舐めるように照らし、赤く染める。
耳に届いたのは、実習の時に聞いた優しい猫撫で声。けれどその内容は下卑たもので、ここまで露骨な感情を久々にぶつけられた澄姫はあまりの強い欲に戦慄し、後ずさる。
伸ばされる手が悪意を持って彼女の小袖に触れ、男の血走った目に浮かぶのは好意でもなんでもなく、彼女をただの性の捌け口としてしか見ていない汚い欲望のみ。
喋ったときにはただの人の良さそうな男性としか思っていなかったのに、まさかこんな男だったなんてと空恐ろしさに苛まれた澄姫は、手首を掴まれてしまい桜色の唇を戦慄かせた。
脳裏に浮かんだ愛しい恋仲の男の名を震える声でか細く呼んだ、その次の瞬間。

「やっぱりか、この不届き野郎!!」

吠えるような怒声と共に、屋根から飛び降りてきたのは大きな体躯の狼…ではなく、濃灰色の痛んだ髪を持つ後輩、竹谷八左ヱ門。
男と澄姫の間に強引に割って入った彼は、華奢な手首を掴む腕を逆に掴んで引き剥がしながら、ぬかりなく彼女を背後に庇う。
突然の乱入者に驚き、慌てて逃げようとする男。しかしそうはいかないとばかりに、八左ヱ門は腕に力を込め、男の腕をより一層強く掴んだ。

「見かけたときからおかしいと思ってたんだ!!観念しろ!!」

低い声で怒鳴るも、諦めの悪い男はもがき、逃げられないと悟るや否や、今度は殺気立った目で八左ヱ門に殴りかかってくる。しかしいくら腕が立つとはいっても、結局一般人にちょっと毛が生えたようなもので、本格的に鍛えている彼に比べれば熊と蟻。攻撃があたるはずもなく、動きを利用されて反動で腕をねじりあげられてしまう。
悲鳴を上げて蹲る男を拘束したまま、八左ヱ門はふんと息を吐き出し、背中に隠れる澄姫を安心させるような快活な笑みで、遅くなってすいませんと言った。

「ちょっと、荷物下ろすのに手間取っちゃって」

あっはっは、と普段の様子で笑う八左ヱ門に、強張っていた体からやっと力を抜くことができた澄姫は、蹲る男を彼の背中越しに眺めてから八左ヱ門を見る。
その瞳から、はじめの一言の疑問を読み取った彼は、頬を掻きながら視線を彷徨わせる。

「…いいの。聞かせて頂戴」

わかりやすい躊躇いを払拭するようにそっと促した彼女に従い、八左ヱ門はあのー、おほー、と言葉を濁しながらもぽつりぽつりと喋り始めた。

「…温度が、感じられなかったんすよ」

「温度?」

「そっす。澄姫先輩が中在家先輩を見る時とか、中在家先輩が澄姫先輩を見る時とか、それ以外にもですけど、そこになにかしらの好意が含まれている視線って温度がある、と俺は感じてて…うまくは言えないんですけど…でも、コイツにはそれを一切感じなかったんす。ほら、澄姫先輩って結構男から逆上せあがった視線貰いますよね、それとはなんか違うって思って。なんというかその、人というより、物に対しての視線みたいに感じて…」

「も、の…」

「まあ、その…男特有の感情みたいなもんですし、女性にはわからないかもしんないっすけど。今後もし、先輩1人でいるときに変な事になるよりかはいいかなと思って…怖い思いさせちゃってすんませんでした」

そこまで話し、ぺこりと頭を下げた八左ヱ門ははっとして、がばりと勢いよく顔を上げる。

「っていうか、これ俺じゃなくて中在家先輩にお任せしたほうがよかったですよね!?おほーすいません!!早くカタつけたほうがいいかなと思って、勝手に…!!」

あまりの勢いに驚き瞳を見開いた澄姫は、どこまでも純朴な後輩の気遣いにぷっと吹き出し、焦る彼の頭を撫でてやろうとして持ち上げた手をふと止め、頭ではなく彼の胸にそっと押し当てた。

「…いいの。ありがとう八左ヱ門、とっても格好よかったわ」

「!!……うす!!」

2年生の頃からずっとずっと可愛い後輩だと思っていたのに、いつの間にこんな逞しく成長したのかしらと感慨深く思いながら、澄姫はその日、不埒な男を突き出すところに突き出してから学園に戻るまで、珍しいことにしおらしく八左ヱ門に寄り添っていた。

「…弟って、いつまでも可愛いままだと思ってしまいがちなのよね」

「?…なんか言いました?」

「うふふ。なんでもないわ」

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