スランプ・レディ

鈴虫の声も徐々に遠くなってきた秋の終わりの夜のこと。
暗闇の中で小さく揺れる微かな明かりに照らされながら、平澄姫は飼育小屋の前で座り込み、山犬の栗と桃を抱き締めながら生え変わったばかりの冬毛に顔をうずめていた。
ぴーん、とか細い鼻声を漏らした栗が、無理矢理隙間に頭をねじ込み、澄姫の頬を舐める。
そこには目立たないが、小さな切り傷が見受けられた。

「…ありがとう、栗…お前は本当に優しい子ね…」

呟いた澄姫の目尻にじわりと浮かんだ涙を、今度は桃がそっと舐め取った。
普段自信満々な彼女から聞こえたとは到底思えない、しょぼくれた声。その原因は、ここしばらく彼女を襲っている所謂『スランプ』が原因。
いつ頃からだったか明確には覚えていないけれど、理由もないのに気分が沈み、体がうまく動かない。それは6年生の実習では致命的と言っても過言ではなかった。
普段ならば体の一部のように動くはずの愛用の武器が、彼女に小さな傷をつけた。命中率100%を誇る手裏剣はあらぬところに打ち込まれ、登り慣れた木からは足を踏み外し、散漫になった注意力では隠れた対戦相手を見つけることすらままならず。
挙句の果てには先生に怒られるという珍しい失態にとうとう澄姫の心はポッキリと折れてしまった。
しかもこんな時に限って、いの一番にすっ飛んでくるはずの彼女の恋仲である中在家長次は、同室の七松小平太と共に遠方の忍務に出ており不在。
焦燥感と不甲斐なさと苛立ちと寂しさに苛まれた彼女は、夜はあまり人が来ない飼育小屋へと赴き、連日ひとりで泣いている。
余りに悲痛なその姿を見て心苦しくなり、慰めようと残りの6年生たちが飼育小屋を訪れたこともあったが、彼らには弱みを見せたくないのか、澄姫は涙を拭いて、何事も無かったかのように平気よと笑うだけ。
打つ手が無くなった6年生たちはただひたすらに6ろはよ帰れと願うしかできず、今日も彼女は、1人で真珠のような涙を零す。

「なんで…どうして…」

昨晩も繰り返した言葉を今日も吐き出した彼女は、ぐしゃぐしゃになってもなお美しい顔をしっとりしてしまった栗の首にこすり付けた。
迷惑そうな顔ひとつせず、悲しそうな瞳で一向に泣き止まない主人の涙をべろべろと舐め取るしかできない桃と栗。
ぴすぴすと鼻を鳴らしていた二匹だったが、とつぜんそのの耳がひくんと動き、滅多に遠吠えをしない栗が月に向かって大きく吠えた。
驚いた澄姫が顔を上げれば、とてつもない速さで近づいてくる気配に気付く。
慌てて乱雑に涙を拭いて鼻を啜り、万が一にと身構える。
不安定に揺れる満月の明かりを頼りに正面を睨みつけていると、そこに人影が2つ躍り出た。

「…澄姫……!!」

「なんだなんだ、どうした?」

すとんと軽い音を立てて彼女の目の前に降り立ったのはボロボロの姿の中在家長次と七松小平太。
着地するなり鼻に皺を寄せた栗と桃に袴を引っ張られた長次は、目が赤い澄姫に気付くなり慌てて駆け寄り、彼女の華奢な体を抱き締め…ようとして戸惑う。
何せ彼は忍務から戻ったばかり。装束は汚れているし、湯浴みも済ませていない。
けれど澄姫はそんなこと気にもせず、彼の腕の中へと飛び込んだ。
相手からしがみ付かれてしまえば抱き締め返さないわけにもいかない長次は、なるべく彼女の装束が汚れないようにさっと袖をまくり、震える身体を抱き締める。

「……どうした…」

「…ッ…!!」

久方ぶりに聞く彼の優しい声に、せっかく拭った涙はまた堰を切ったように溢れ出し、深緑の装束を濡らしていく。
けれどその中で、彼女は気が付いた。
調子が悪くなったのは彼が長期忍務に出てからで、日に日に募る寂しさから上の空になっていったことに。
あれだけ憎らしかったはずのスランプの原因だが、それが彼だというだけで全て『なら仕方ない』と一蹴してしまえる澄姫はその晩、身を清めた彼にひっついて離れなかった。

そしてようやく肩の荷が下りた山犬2匹は、久々の静かな夜に肩の力を抜き、暖かな毛布の上でくるりと丸くなりながら、全く面倒なご主人よねとでも言いたいかのように、ふうと大きな溜息を吐き出したのだった。

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