自慢の先輩

激しい雨が降る夜、5年ろ組の竹谷八左ヱ門は喉を焼く痛みに顔を顰めながらも、木々を掻き分け真っ暗な森の中を進む。
時折彼の口から漏れる呟きには悔しさと焦りが滲んでおり、いつも快活な彼の目も、この時ばかりは獣のような鋭さのみが見て取れた。

「…くそ…!!」

歩んだぬかるみに滴る、鮮血。
背中にかかるのは、決して失いたくはない命。

「くそぉ…ッ!!」

悲痛な呟きを漏らしながら、彼はひたすらに森を進む。
安心できる箱庭に、一刻も早く級友たちを運ぶために。

切欠は、先行部隊の些細な調査ミスだった。
その日、5年生は組別で指定された城に侵入し、指定されたものを持って帰ってくるという内容の実習を行うことになっていた。ろ組に宛がわれた城は特に悪い噂も聞かず、ミスさえしなければ安全な実習だった。
だが、功を焦ったのか先行部隊が一番基本的で一番危険な印を取る調査でミスをし、潜入部隊のひとつである鉢屋三郎、不破雷蔵、竹谷八左ヱ門の組が数えられていなかった敵城忍隊と交戦。
実力はそこそこ、けれど実戦経験豊富なプロ忍者と一戦交える羽目になってしまった彼らは交戦しつつ必死で逃走を図るも、数で勝る忍隊にじわじわと押され、逃走のしんがりを務めていた鉢屋三郎が負傷。助けに入った不破雷蔵も重傷を負ってしまった。
怪我をしてはいるが動けない程ではなかった八左ヱ門は、がむしゃらになって意識がない三郎と動けない雷蔵を担ぎ、何とかその場から逃走し森に飛び込んだ。
けれどそこはまだ敵の領地。いつまた追手が来るかもわからない恐怖、雨に濡れたせいで体温を奪われどんどん冷たくなっていく級友たちに焦り、思考がまとまらない。

「どうする、どうする…落ち着け俺、どうすれば…」

カチカチと奥歯を鳴らしながらもなんとか3人無事に生還する手立てを考える八左ヱ門。
そんな彼に、背後からか細い声がかけられた。

「…ハチ…僕たちを…置いて、行って…」

「ばかなこと言うな!!」

咄嗟に怒鳴り返すも、ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返す雷蔵は、いつもの優しい笑顔を力なく浮かべて彼に向かって微笑んだ。

「ハチ、ひとりなら、逃げられる…」

弱弱しい声にかぶさるように、背後から草を掻き分ける音がする。
迫る追手の足音と雷蔵の言葉に、八左ヱ門の震えが大きくなった。

「何を犠牲に、しても、情報を、もたらすのが…忍者の、勤めだよ…」

「ばかやろ…置いてなんて、いけるかよぉ…!!」

絞り出すような彼の声が無情にも雨の音に叩き落され、木々の隙間から黒檀の装束が踊り出る。警戒心と殺気と敵意が混じり合った武器を構える彼らを見て覚悟を決めた八左ヱ門は、木の幹の傍のなるべく雨が当たらない場所に三郎と雷蔵をそっと下ろす。
そして、もう微塵さえ振るえない腕で苦無を構え、彼らを庇うようにして敵と対峙した。
襲いくる刃を受け止め、そのたびに走る痛みを歯をくいしばって耐える。動けない級友にその刃が伸ばされようものなら、己の腕や足を犠牲にしてでも食い止めた。
ぼたぼたと地面を汚す赤。
それでも彼は、絶対にその場を退かず、級友たちを背にかばい続ける。
直後、必死に戦う彼の死角から、忍刀が振り下ろされた。
それを視界に入れて、目を見開く八左ヱ門。脳裏を廻るのは走馬燈だろうか、楽しかった日々や、守りたかった級友たちの笑顔、学園の先生や先輩後輩、大切にしている生物たち…長いようで短いそれらが一気に彼の脳裏を駆け抜けた瞬間、ずっと食いしばっていた彼の口から、かみさま、という呟きがそっと飛び出した。

ぶしゅう、と勢いよく噴き出す赤。
雨を塗り潰す勢いで地面に降り注ぐそれは、黒檀を赤く染めぬいていく。

八左ヱ門の死角から黒檀を貫き木に刺さったのは、一本の苦無。呆然としている彼に残った黒檀の刃が迫るも、そのむきだしの首にするりと巻きついたのは深赤の脚。
重力に逆らうように浮いた黒檀の体は勢いをつけて地面へと叩きつけられ、何か硬いものが折れる音が響いた。
雨音だけが聞こえる森の中、沈黙した黒檀から足を外した深赤が立ち上がり、八左ヱ門の頬にそっと手を伸ばす。

「澄姫…先輩…」

雨の滴を長い髪に飾り、暗い森の中でも輝くように立つ深赤、平澄姫は、傷だらけの後輩の頬を優しく撫でると、整った顔に安堵を浮かべて笑った。

「ハチ、間に合ってよかったわ…」

そして巻いている頭巾を八左ヱ門の首から顔にかけて巻き付けると、よく頑張ったわねと傷んだ髪を優しく撫でる。

「伊作たちもすぐそこまで来ているから、三郎も雷蔵ももう大丈夫よ」

いつもの高飛車な声ではなく、ただひたすらに安心感だけを与えてくるその声に何度も何度も頷きながら、八左ヱ門は巻かれた深赤の頭巾を、どんどん流れてくる涙を隠すように顔に押し当てた。




その後、駆けつけた6年生たちにより無事救出された八左ヱ門たちは大事に至る前に手当てを受け、学園に戻ることができた。
先行部隊のミスに気が付いた引率の教師が即座に6年生を招集したことにより最悪の事態は免れたが、三郎は意識が戻ったが満身創痍、雷蔵も肋骨と足の骨が折れており、八左ヱ門もところどころ深い傷を受けているのでと仲良く絶対安静指示。
医務室は双忍に占拠されてしまったので自室での養生をやむなくされた八左ヱ門は、布団に大人しく寝っころがりながら、ぼんやりとあの時のことを思い出す。
走馬灯が駆け抜けたあの瞬間、彼は確かに死を覚悟した。だからこそ、いないとわかってはいても、心の中で神に祈った。
その瞬間闇の中から現れたのは、獣のような目をした女神。
目にも止まらぬ速さで苦無を打った彼女は、ぬかるんだ地面などものともせずに一気に敵との距離を詰めた。

「…かっこよかったなぁ…」

男と女という性別の違いもあり、そのうえ一学年しか違わないというのに、追い詰められ、震え、混乱し、何もできなかった自分を颯爽と救出した澄姫。
しかも治療の際に伊作から聞かされた話では、最初はこの失敗も実習、いい経験になるわねと冷たく言った彼女は、巻き込まれているのが己の委員会の後輩だとわかるや否や教師の指示も恋仲の腕も振りほどき、森に飛び込んだらしい。

「あの時の澄姫、小平太よりも素早かったよ。よっぽど竹谷のことが心配だったんだね」

と笑った伊作の言葉を思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。
学年が上がれば上がるほど、守られる立場は守る立場に変わっていく。5年生ともなればほぼ守られることなどなくなるのだけれど、それでも万が一の事態に見舞われた時に駆け付けてくれる存在がいることがこんなに嬉しいとは思わなかった八左ヱ門は、あの時触れられた頬にそっと指を這わせて、へらりと笑った。

「俺、澄姫先輩が先輩で、すげぇ嬉しいや…」

噛み締めるように呟いた八左ヱ門は、そのままゆっくり目を閉じる。
回復するために眠りについた彼…の部屋の天井裏、そこにこっそり忍び込んで覗いていた澄姫は、立てていた膝に肘をついて頬杖をつく。

「全く。心配かけさせるんだから…」

呆れた声で呟いて、彼女は柔らかく目尻を下げ、暫くの間眠る彼を見つめていた。


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