凄腕忍者の災難

月は沈んで、星影もない夜。
漆黒に紛れた影が、とある城に舞い込んだ。
覆面に覆われた口角を少し引き上げたその影は、身を潜めながら城の中を進んでいく。
彼はドクササコ城の凄腕忍者。とある任務でとある城に諜報に赴いている。
部下には恵まれていないが、実力は確かなもので、警備の薄さにほくそ笑みながら目的地へと進んでいる。
その途中、彼の視界の隅にどこかで見たことがある深赤が映り込んだ。

「…ドクタケがいるとは聞いていないが…」

彼が勤める城とはまた別に、戦好きで悪名高い城の忍者隊を思い出した凄腕忍者は邪魔だてされては困ると、気配を消して深赤に忍び寄る。
物陰に潜み、同じく物陰に潜んでいるドクタケ忍者をさてどうやって追い払おうかと考えていた彼の目が、次の瞬間心底嫌そうに細められた。

「…チッ……」

空気に溶けた小さな舌打ち。彼の視線の先には、戦場でよく見かける渋柿とは少し違った深赤色。
数回見た整いすぎた顔立ちは覆面で半分覆われているが、それでも十分にあの女だと確信が持てた。
いつか浚った幼女を必死に奪い返しに来た、忍者のたまご。
あの時は中間管理職のような立場にいた凄腕忍者はまあいろいろと嫌な思いをしたのだけれど、その話は今は置いておこう。
とにかく、実習でもやっているのか、何かを探すそぶりをしながら蠢く深赤を少しばかり眺めていた凄腕忍者は、ふむ、と何かを考えひとつ頷くと、にやりと笑って一旦その場から姿を消した。



「ここにも、ない…となると、目的のものは仙蔵たちのところに隠してあるのかしら…?」

音もなく部屋に降り立ち、箪笥を物色していた澄姫は、小さく呟いて立ち上がった。
6年生の実習課題でとある城にとあるものを頂戴しに来た彼女たちは、手分けして探し物の最中。
幸い割と平和な領域なので、落ち着いて行動すれば何ら問題ないと事前に話し合っていた澄姫は、いったん外に出て見張り役の伊作に落ち合おうかと首を傾げた。
その時彼女の耳に飛び込んだ、囁くような小さな低い声。
潜入中なので気配を消していたのか、愛しい存在に気付かなかった澄姫は一瞬驚いて肩を跳ねさせたものの、声の主を見て覆面を下げた。

「長次」

ふわりと、大輪の花が咲き誇るような微笑みに一瞬だけ視線を彷徨わせた深緑。その態度を見て何かあったのかと駆け寄った澄姫は、首を傾げて恋仲の男…中在家長次に問い掛けた。

「どうしたの長次?何か問題でも起きたの?」

「……いや…」

「あ、もしかして長次のところにもなかったのかしら?丁度良かった、私もはずれだったのよ」

「…そうか……」

普段から長次を妄信している澄姫は、何の警戒心も抱かずに彼に近寄り、他の男には決して向けない蕩けた笑みを浮かべる。
そんな彼女を、深緑が徐々に徐々に追い詰めて、部屋の壁に追いやった。
背中に軽く響いた衝撃に驚き顔を上げた澄姫の頬に、朱が走る。

「ちょ、長次…どうしたの?なんだか、変、よ…?」

「…黙れ」

見上げた瞳に浮かぶ、攻撃的な色。普段優しい彼にしては珍しい乱暴な色だけれど、実習中だけれど、迫る唇の誘惑にあっという間に陥落した澄姫はゆっくりと瞳を閉じて、桜色の唇を誘うように薄く開いた。

けれどそれが触れ合う寸前に、間に白魚の指が指し込まれる。
驚いた深緑が距離を取れば、今しがたまで蕩けていた澄姫が剣呑な眼差しで苦無を突き出し、低い声で唸った。

「貴方、誰?」

まるで別人とも思える冷たい声に、驚いた顔をしていた深緑がクっと笑う。

「これは驚いた。忍びの勘か、それとも女の勘か?」

「両方よ」

短く吐き捨てた澄姫の言葉を聞いて、どちらにせよ見事なものだと笑った長次が、ばさりと深緑を脱ぎ捨てる。そこから現れたのは、濃灰の忍装束。

「ドクササコの凄腕忍者さんね。その節はどうも」

「こちらこそ、お嬢さん」

正体を現したことで生まれた緊張感。分が悪いと悟りながらも突き付けた苦無を下ろすそぶりを見せない澄姫にくつくつと肩を震わせた凄腕忍者は、そんなに警戒しなくてもいいと珍しく目じりを下げる。

「ちょっとからかってやろうと思っただけだ…まあ、もう少しで捉まえられそうではあったがな」

しかしニヒルな笑みでそう言った凄腕忍者は、次の瞬間目をかっ開いた。

「貴方が私を捉まえる?いやだ、笑えない冗談ね」

寒気がするほど美しい微笑みでそう言った澄姫は、いつの間に外したのか、部屋の窓格子から華奢な身体を乗り出していた。
彼の頭に叩き込まれた間取り図が間違っていなければ、彼女が躍り出ようとしているその先は何の足場もない断崖絶壁。
さすがに危ないと、咄嗟に伸ばした凄腕忍者の手が深赤に届くギリギリで、澄姫は格子を蹴り、にっこりと笑う。

「私を捉まえられる男は、この世でたったひとりだけよ」

そう言い残して宵闇に舞った澄姫の身体が、重力に従い自由落下を始める。驚愕のあまり声も発せない凄腕忍者がはっと我に返り、外された格子から顔を出した瞬間、眼下から一本の縄が飛び出し、深赤に巻き付いた。
遅れて飛び出してきたのは、体格のいい深緑。
それは深赤を掻っ攫い、勢いを殺しながら無事に地面に降り立つ。
これも計画の内だったのかとゾッとした凄腕忍者だったが、地面にそっと下ろされた深赤に深緑が何やら言っているのを見るところ、そうでもないらしい。
まったく無茶苦茶な女だと格子に肘をついてその光景を見下ろしていた凄腕忍者は、怒っているらしい深緑にするりと抱きついた深赤と目が合う。
遠目からでも艶めく桜色の唇が、ね?、と動き、彼は心底げんなりした顔でその場にしゃがみ込んだ。
件の事件のささやかな報復として少しからかってやるつもりだったのに、逆に砂を吐きそうなほど当てつけられてしまったドクササコの凄腕忍者は、今後あのバカップルを見かけても金輪際かかわるまいと強く心に誓った。

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