骨抜き生き字引

そろそろ夕食時かという時間帯。茜色に染まる図書室で本日返却された本の整理をしていると、からりと扉が開きひょこりと顔を出した人物に、私は思わず目を見開いた。

「あ、すみません…」

何も言ってはいないのに開口一番謝罪を口にした同室の委員会の後輩、皆本金吾に“図書室での私語は厳禁だ”とやんわり言おうとも思ったが、本日既に閉館。
きっと怯えさせてしまうと思い、私は吐き出しかけた言葉を呑み込み、どうかしたかと小さな声で問い掛ける。

「あ、えっと、用事ではない…のかな?あの、ちょっと気になってしまって、んと、中在家先輩にお聞きしたいことがあって…その…」

もごもごと言いにくそうにつぶやいて、ちょこんと私の正面に腰を下ろした金吾は、ジャンル別に本を分けている私の手元を見ながらもじもじとまだ小さな指先をいじり、心底不思議そうな顔で私を見た。

「中在家先輩って、どうして澄姫先輩とお付き合いされているんですか?」

……予想もしなかった問い掛けに、私は思わず本を取り落とした。
案外大きく響いたそれに怯えてしまったのか、突然慌て出した金吾は顔の前でぶんぶんと手を振り、聞き方を間違えましたと泣きそうな顔になる。

「すすすみません、えっと、そうじゃなくて、体育委員会の七松先輩とか、滝夜叉丸先輩が、あの、中在家先輩って色恋に完全に興味なさそうなのになってよく仰ってて、ぼくたち1年生から見ても中在家先輩って硬派っていうか、かっこいいっていうか、そりゃ女性に興味ない男なんていないよって団蔵は言うんですけど、でも、きり丸も中在家先輩は美人に言い寄られたからって靡くタイプじゃなさそうだし、まして澄姫先輩みたいな派手なタイプって苦手そうだったのになって言ってて、ぼく、あの、なんでかなーって」

大慌てで捲し立てた金吾の瞳に浮かぶ、純粋な疑問。幼い子供ならではのキラキラした瞳に、私は静かに息を吐いて、記憶の海に身を投げる。



幼い頃より人見知りで、他人と話すことを得意としなかった私は、忍術学園に入学してからもなかなか友人が出来なかった。
しかし同室である小平太と徐々に仲良くなり、その輪はいつの間にか広がり今の友人たちが気付けば傍に居た。
それぞれ委員会に入ると聞き、私もずっと気になっていた図書委員会に入り、そこで出会った当時の委員長の姿に憧れ、彼を真似て縄標の練習を始めた。
…その頃だろうか、背中を突き刺すひとつの視線に気が付いたのは。
縄標を打つふりをしてそっと背後を伺えば、そこにはいつも一人の少女がいた。
隠れている場所はいつも違うのだが、じっと私を見ている瞳はいつも同じ。最初は不快に思っていたその視線がいつしか不快ではなくなり、季節が巡るにつれ当たり前の存在になった。
3年生に上がって暫くの頃、鳥に襲われていた山犬の子供を助けようとして崖から落ちかけた。あの時助けを呼びに行った仙蔵と入れ違いに駆けてきたのは、まだ当時名も知らぬ澄姫。助けた山犬を生物委員会所属だと言った彼女に預け、そこから名を知り、また仙蔵と仲が良かったので少しずつ話すようになった。
生まれてこの方引っ込み思案だった私には当然異性の友人などおらず、まして彼女のように愛らしい容姿の子とは接点などあるはずもなく、柄にもなく緊張したことをよく覚えている。
出会った頃の印象は、本当にただ可愛い少女だと、そう思っただけだった。
同世代の誰よりも読んだ本にたまに出てくるような、綺麗なお姫様。それに酷似した澄姫に私などが無謀な恋心を抱くはずもなく、きっと彼女のような愛らしい少女は仙蔵のような整った容姿の少年と幸せになるのだろうなと、そう信じて疑わなかった。
それを覆されたのは、4年生の春。萌黄から紫に、桃色から深赤に変わった私たちは、その時から授業を合同で受けるようになった。
それが、彼女の中で何かの転機になったのだろうか。
初めて彼女から思いを告げられたのは、放課後呼び出された校庭の隅の大きな木の下。普段の自信満々な性格をどこかに忘れてきたのか、今にも倒れてしまいそうなくらいに真っ赤になり、泣きそうな顔で、消え入りそうな声で、すきです、と告げられ、恥ずかしい話、私はその日の夕方からの記憶がない。
あり得ない、あれは夢だと言い聞かせてしまったのかもしれない。とにかく、勝手に彼女の告白をなかったことにしてしまった私は、翌日また同じような状況に陥り情けなくも逃げ出してしまったのだが。
その日から、澄姫の怒涛の告白ラッシュが幕を開けた。4年生の冬休み明けまでは冗談だと思い、5年生の夏休み前までは何かの課題かと疑った。
頭から私などに惚れるはずもないと思い込んでいた私は、心無い言葉を投げたこともある。図書室まで押しかけてきたときには、怒りに任せて叩き出したこともあった。
だが、繰り返されるうちに私の心を蝕み始めた彼女。きっと冗談だ、嘘に決まっている、課題か何かだと必死に言い聞かせたのにもかかわらず、私の目は勝手に彼女の姿を探し、耳は彼女の声を拾い、手は彼女のぬくもりを求めた。
傷付くのをわかっていても彼女に心奪われてしまった愚かな私は、5年生の春休み前、図書室にやってきた彼女の思い詰めた瞳に、とうとう陥落したのだが。
優秀だからと、強いと言われているからといっても、何をされても傷付かない訳ではない。そう言って私を睨んだあの瞳からボロボロと溢れる涙を見て、意気地なしだった私は気が付いた。
最初から何もかもを決め付けている自分に気が付いた。
彼女の満身創痍のこころに気が付いた。
もうどうしようもなくなっている自分の想いに、やっと気が付いた。
それを受け入れた途端、世界が煌き、澄姫がどうしようもないくらいに愛おしくて愛おしくて仕方なくなった。笑う彼女も、怒る彼女も、意地を張る彼女も、やたらと自慢げな彼女も、照れる彼女も、全てが愛おしくて堪らない。
時折やはり、美貌の彼女が心移りをしてしまうのではないかと不安になることはあるが、彼女の言葉と気持ちを信じて、しっかりその手を握っていようと誓った。
いつどんな時でも忘れない、瞳を閉じれば、彼女の姿が鮮明に浮かぶ。
私に気付き、振り向いて微笑む時、絹糸よりも美しい長い髪が



「……靡いて…今にも彼女の甘い香りが…香って…きそうな…」

「長次、声、声」

突然響いた友人の声で、私は現実に舞い戻る。はっとして顔を上げれば、そこにはいつの間にやってきたのか同室の小平太が金吾の耳を後ろから塞いでおり、お前の惚気は1年生にはまだ刺激が強いと大爆笑。
物思いに耽っているうちに、どうやら想いが勝手に口から溢れ出してしまったようだ。
しまったと慌てて口を押さえるが、澄姫のことを考えていた所為で普段凝り固まって微動だにしない表情筋が自分でもわかるくらい仕事を放棄している。

「なはははは!!顔ゆるっゆるだぞ長次!!」

忍術学園一無口で、傷を庇う所為でうまく笑えなくなってしまった私をここまで骨抜きにした澄姫をごく稀に憎らしく思うこともあるが、それを抜いても有り余るほど、彼女は可愛い。それはもう、とてつもなく。

「なははは!!相変わらず長次は澄姫にメロッメロのデロッデロの骨抜き心酔だな!!」

そう言った小平太はニヤニヤ顔で立ち上がる。やっと耳から手を離してもらった金吾も、私の緩んだ顔を見て幼いながらに何かを感じ取ったのだろう。よくわからないけど、中在家先輩がちゃんと澄姫先輩のことが大好きだっていうことはぼくにもわかりましたと無邪気な笑顔で言われてしまった。
意図せず後輩に恥ずかしいところを見せてしまった私は、偶然返却書物にあった修繕したばかりの書物に気付き、これならば多少衝撃を与えても大丈夫だろうと一人そっと頷いて、少し過激な照れ隠しとして小平太の頭にそれを振り下ろした。

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