哀情
図書室で巻物の修繕をしていた長次の耳に、ふと、風を切る音が消えてきた。
視線はそのまま巻物に注ぎ、耳を澄ます。
微かなその音は聞き慣れた、友人たちとよく使う矢羽音だった。
長次は手を動かしながら、その矢羽音に対し「わかった」と返した。
気配が天井裏から去っていく時に、バキッと何かを踏み外したような音がしたが、優しい長次は気付かないふりをしてやった。
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委員会の活動を終え、長次は医務室へと向かっていた。
保健委員会も同じく活動は終わっているようで、扉を開けると当番であろう伊作の姿しか見えなかった。
長次に気付いた伊作は優しく笑い、長次に座布団を勧めた。
静かに腰を下ろした長次を一瞥し、伊作は念のため周囲の気配を探り、誰もいないことを確認してから、口を開いた。
「急に呼び出して、ごめん」
「…気に、するな」
伊作はまず急に呼び出したことを詫び、長次に頭を下げた。
長次はそれを手でよせ、と制し、優しい眼差しを彼に向けた。
伊作はそれで確信する。
「長次、やっぱり君は…正気なんだね…」
伊作のその言葉に、長次は俯き、そして静かに頷いた。
「…情けないんだけど、色々と聞いても、いいかな?」
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伊作は数日前の裏裏山で実技の授業中、新木心愛と名乗る不思議な少女が空から落ちてきたところを助けた。
と言うとかっこよく聞こえるが、実際は実技の授業中に通った裏裏山の開けた場所で何故か躓き、思いっきり滑ったところに新木心愛が落ちただけなのだ。
大丈夫かと問いかけても呆然としているその少女に、頭でも打っているのかと心配になり、医務室へ連れて行こうかと提案したところでやっと少女が反応を返した。
大丈夫、ありがとうと嬉しそうに笑うその少女に、見蕩れた。
そこまでがはっきりとした記憶。
伊作はそこから先日の昼休みまでの記憶が酷く曖昧で、熱に浮かされている時のようにおぼろげだった。
「…僕に、いや、僕たちに、一体何が起きたんだい?」
その言葉を聞き、長次は静かに今までのことを話し始めた。
「…あの、新木心愛という少女が空から降ってきたあと、伊作と文次郎と留三郎が、惑わされたように少女を気にかけだした。距離を置いて観察してみると、あの少女に笑いかけられたものはそうなるように感じた…」
「それは5年生と4年生も…」
「…あぁ、同じだ。小平太と竹谷は臭いがするといって少女には近寄らなかった。警戒心が強い仙蔵も同じだ」
「野生児コンビはさすがとしか言いようがないなぁ…」
呆れたような感心したような伊作のその言葉に長次も頷いて、続ける。
「あの少女は、自分に寄って来ない仙蔵や小平太に積極的に話しかけに言っていた。私はそれを見て、惑わされたふりをしているほうが目的を探りやすいと思い、鉢屋と口裏を合わせあの少女に近付いた」
「ええぇ!!?鉢屋も正気だったのかい!?それは…なんていうか…」
「…あぁ、不破には、悪いことをした…」
「え!?いやいや、そっち!!?」
伊作と長次は、意外と剛腕な不破にぼこぼこにされた鉢屋を思い出し、遠い目をしたが、少し的外れな長次の言葉に伊作は面食らった。
「あ、じゃあ澄姫と別れたっていうのは嘘なんだね」
気を取り直し嬉しそうに伊作がそう言うと、長次は辛そうに目を伏せて、首を振る。
「…それは、本当だ」
安心したところに長次のまさかの肯定に、伊作は唖然とする。
「なっ、そ、どうして!?」
「…あの少女が、仮に敵だとすると、澄姫に害が、及ぶかもしれない…」
大切だからこそ、彼女を守りたい。危害を加えさせるわけにはいかない。そんな優しい長次だからこそ、あえて辛い選択をし、澄姫を遠ざけた。
伊作はそんな長次の心遣いに頭を抱えて蹲った。
「そうか、澄姫は長次の…手を離れたからこそ…」
「…あぁ、澄姫は、安全だ…」
辛そうな、それでも愛おしい彼女を想って、柔らかな笑みを浮かべ長次はそう呟く。
そんな彼を伊作は思いっきり睨みつけ、怒鳴りつける。
「バカ長次!!惑わされてた僕が言うのはちょっと気が引けるんだけど…でも何てことしてくれたんだよ!!」
滅多にない伊作の怒り狂ったその姿に、長次は呆然とする。
「学園のため、澄姫のために色々と嗅ぎ回ってた長次は知らないだろうけどね!!澄姫の荒れようったら凄いんだから!!新木心愛から友人と後輩を取り戻す、とか言って色仕掛けで皆を正気に戻してるんだよ!?僕と留三郎はまだいいけど、文次郎なんて澄姫を手篭めにしたなんて噂たてられてるし、4年は基より5年にだって澄姫の色は刺激が強すぎるよ!!あんな歩くR指定みたいな澄姫を手放す、な、ん…て…」
怒りの余り饒舌になっていた伊作だったが、怒鳴っているうち長次のムッとした表情がどんどん気味の悪い笑顔に歪んでいくのに気付き、途中で勢いをなくしてしまった。
「ふへ…うへへ…」
「あ、えっと、だからね、早く澄姫と、拠りを戻してくれないかなーって…とりあえず、落ち着いて?武器は置こう?ね?」
何とか宥めようとする伊作の努力も虚しく、医務室には彼の悲鳴と、縄標が壁にめり込む音が響き渡った。
そんなどさくさに紛れ、医務室の床下に潜んでいた影が小さく笑い、その長い髪を靡かせて音もなく立ち去った。
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