長次の恋文大作戦

それは、本当に他愛ない会話を聞いたのがきっかけになったんだと思う。
夕食の時間もとうに過ぎた亥の刻少し前。昼過ぎに入荷したばかりの本をずっと読み耽っていた長次は鍛錬に出かける小平太に声を掛けられ、やっと就寝時間が近付いていることに気が付いた。
そんなに熱中していたのかと笑う友人に気恥しいものを感じながらも、その笑い声は決して自分をバカにしているものではないと知っている彼はそっと目尻を下げ、小平太の背中を見送った。
そして自分もさっさと湯浴みを済ませ、食堂で茶でも貰ってから寝ようと寝間着のまま暗い渡り廊下を進み食堂についたのだが、すでに火が落とされているはずの食堂からはほんのりと明かりが漏れており、先客がいることが伺えた。
明かりと共に漏れてくる声はすっかり耳に馴染んだ友人の声と、声すら愛しい恋仲のもの。
朗らかに談笑する2人を驚かせないように気を配った長次が食堂の敷居を跨ごうとした、その時だった。

「…でも、羨ましいわ。私、恋文って貰ったことないもの」

鼓膜を揺らした澄姫の声に、長次の肩と言わず全身がぎくりと震える。

「ほう?それは意外だな、てっきり山のように貰っていると思っていたが」

「手紙よりも直接言い寄ってくる輩のほうが断然多いわね。揃いも揃ってありふれた口説き文句ばかりでほとほと呆れるの。少しは仙蔵みたいに頭を捻った口説き文句を考えてほしいわ」

「ははは。それは光栄だ…そうだな、惚れるなら私にしておけ」

「うふふ、申し出は嬉しいけれど結構よ。私には長次がいるもの」

「それもそうだな」

ははは、ふふふと軽口を叩きあって笑う仙蔵と澄姫。普段ならばそっと笑って顔を出せるはずの長次はしかし、額にじわりと汗を滲ませていた。
足音を立てないようにその場をじりじりと後ずさった彼は、どくどくと嫌な感じに跳ねる心臓を寝間着の上から押さえながら誰もいない自室に駆け込む。

彼がここまで焦燥しているのは、別に恋仲である澄姫が楽しげに仙蔵と喋っていたからではない。

「……澄姫は、恋文が…欲しいのか…」

ほんのりと秋の匂いを帯び始めた風に揺れる明かりに照らされながら一人ぽつりと漏らした長次は、彼女が欲しがっているならば毎晩大量に彼女に贈られる恋文を一日くらい残すかと考え、一瞬にして却下した。

「それだけは、だめだ」

小さな声ながらしっかりと強い意志を込めた一言で、彼の瞳が煌く。
途端に文机に噛り付いた長次は、山と積まれた本を少々乱雑に脇にどけると、引き出しから紙を取り出してサラサラと筆を走らせる。
『沈黙の生き字引』と謳われる彼にすれば、恋文を書くことなど朝飯前………だと、彼自身も思っていたのだけれど、そうそううまくはいかないわけで。
丑三つ時を過ぎたころ、彼に部屋には書き損じの紙が大量に散らばっていた。

「……『月が綺麗だから』…だめだ、在り来たりすぎる…いっそ安直に『愛している』……いくらなんでも、これはない…!!」

ぼそぼそと呟いては、筆を走らせた紙をぐしゃりと握り潰す。書いては書き直し、書き直しては書いてと繰り返していた長次は、やっと満足がいきそうなものを一枚書き上げて見直し、けれどがっくりと頭垂れた。
紙に書かれた美しい愛の言葉。しかしそれはいつか書物で見かけたことがあるような気がして、彼は自嘲気味に笑う。
自分はどこまでも本の虫だ。
結局自分の知識の引き出しには、本からの受け売りの言葉しか入っていないのだ。

「…恋文ひとつ、まともに書けない……」

吐き捨てるように呟いた長次は、まっすぐな栗色の前髪を溜息と共に掻きあげて、凝り固まった肩をほぐすように顔を上げた。
その時視界に飛び込んできたのは、うっすらと白みかけている空。そんなに熱中していたのかと驚くと同時に、朝焼けの紫が、恋い焦がれる女を連想させる。

「−−−−−−………」

途端に胸に込み上げた、言葉にできない慕情。この気持ちをすんなり言葉にできればいいのにと思った彼は、脳裏に次々と浮かんできた澄姫の色んな表情に眼を覆う。
ちがう。すんなり言葉にできないくらい、自分は彼女が好きなのだ。
飾り立てた言葉を借りようとするから違和感が生じてしまうくらい、こころから。
すとんと心に落ちてきたその理由で、妙に落ち着いた気分になった長次はまた筆を走らせる。
深呼吸して、筆を走らせ、また手を止めては書き始め…
そんな彼の超大作が完成したのは、朝食の時間すら過ぎた頃だった。

結局一睡もできなかったし、更に朝食も食いっぱくれてしまったが、そのことは一切頭にない長次は大急ぎで深緑の装束に着替えると何やら声を掛けてきた小平太すら一瞥もせず6年い組の教室に駆け込み、彼の姿が見えずそわそわしていた澄姫の腕を引っ掴んで駆け上った階段をまた駆け下りた。

「長次、長次、一体どうしたの?」

そうしてやってきたのは、校舎裏。
そろそろ授業が始まることもあり人気が一切ないそこに連れてこられた澄姫は、なんだか切羽詰まっているように見える彼の腕にそっと触れながら問いかける。

「何かあったの?朝も食堂に来なかったし、隈が酷いわ…」

心配事か、何か悩み事でもあるのかと酷く心配そうな澄姫をじっと見つめた長次は、こくりと小さく喉を鳴らし、懐から取り出した文を彼女のたわわな胸に押し付けた。

「長次…?」

「……欲しかったのだろう…」

「欲し、え…?」

彼の意図が全く読めない澄姫は、きょとんと目を丸くして胸に押し付けられているそれと彼の顔を見比べる。
その微妙な沈黙が、長次の羞恥心に火をつけた。

「…ありきたりなことしか…書けなかったんだ……想いが大きすぎて…うまく纏められない…というか……目の前にいないのに、緊張…してしまった…」

学園一無口な男が、羞恥のあまり喋る喋る。彼を良く知る友人や後輩が今の光景を見たら目玉が落ちそうなくらい驚くことだろう。
しかし『中在家長次』という存在そのものを深く愛している澄姫にとっては些細な問題でしかなく、それよりも彼女は、彼がここまで取り乱しながらも渡してくれた文のほうが気になって仕方なかった。

「……ここで今読んでも、いいかしら?」

静かな声で問いかけたそれに突然口篭り、無言で肯定を示した長次にふわりとした笑みをひとつ向けた澄姫は、ゆっくりとした手つきで文を開いた。
まず開封一番目についたのは、普段とても綺麗な字を書く長次からは想像もできないくらい、震えて、歪で、滲んで、揺れて、それでも丁寧な文字。
平澄姫様へ、という書き出しで始まった手紙には、大きな余白と、好きです、という短い短い一言。
それを黙って見つめる澄姫を見下ろした長次は、軽く唇を噛んで俯く。
彼が毎日破り捨てていた恋文には、もっと長くもっと煌びやかな文字が綴られていた。しかしどうだ、自分のそれは、とても貧相で真っ白で、とても文とは言えない。
やはりもう一度書き直してから、と文に手を伸ばしかけた長次の無骨な手。けれどその手は、真っ白で綺麗な手に包まれる。
驚いて顔を上げれば、歓喜のあまり瞳に涙を浮かべて笑う澄姫の姿。

「ありがとう長次…世界で一番、素敵な恋文だわ…っ」

涙声で何とかそれだけ言った彼女は、そのまま深緑の胸へと飛び込む。
あんな短い、文とも呼べない恋文などでこんなに喜んでくれた澄姫を抱きとめ、唖然としていた長次の頬が赤く染まっていく。

「長次から恋文を貰えるなんて、思ってもみなかった…」

「…私もだ…初めて、書いた…」

「言葉だけでも嬉しいのに、形に残るなんて…嬉し過ぎておかしくなりそうよ。こんなに私を夢中にさせて、一体どうしようっていうの?」

「……それは、お互い様だろう?」

「やだ、いじわるな人ね…」

「……うるさい…」

抱き合ったまま、唇が触れ合いそうな距離で囁きあった2人は、授業開始の鐘の音を聞きながら、教室とは反対方向へと姿を消した。



@(2周年企画/桓懿様、みずき様、藤宮様、あさ様)



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完全に蛇足ですが、追記。
勘のいい方なら気付いていると思いますが、この日朝食の時間を過ぎても文机に噛り付いていた長次は朝食を食いっぱくれただけでなく、毎朝の日課もすっかり忘れています。
長次に声を掛けた小平太が言いたかったことは、実はそのこと。
この日の夜、長次は小平太に『忙しそうだったから日課代わりにやっといたぞ!!』と言われ赤面。さらに書き損じの恋文は伊作の手によって落とし紙になり、最悪にも仙様に発見されからかわれることとなりました。南無三…!!

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