ほろにがビスコイト(後)
食堂を出た澄姫は全力で廊下を走り、光の速さで出門表にサインして、学園の裏々山にある小川までやってきた。
配分を考えずに全力疾走したせいで喉がズキズキと痛むが、それよりも、こころがもっと痛かった。
せせらぎが眩しい川べりの岩に腰を下ろし、掴んで走ったせいでグチャグチャになってしまった包みを睨む。赤いリボンが風に遊ばれて揺れるのを見ているだけで、胸がざわついて仕方ない。
「長次の、」
岩の上に立ち、光る水面を睨み付け、歯を剥いて唸りながら包みを掴んだ手を大きく振り上げる。
「っばかぁ!!!」
そして怒りのままそれを水面に叩きつけようとした白い腕…を、背後から伸びてきた大きな手が寸前で止めた。
覚えのある気配に睨みをきかせて振り返れば、彼女の腕を掴んだ手とは反対の手で困ったように頬を掻く青年。
「あー、やっぱり澄姫ちゃんだ。こんなところでどうしたの?」
「………〜〜〜〜タカ丸くぅん…!!!」
紫を睨んでいた瞳に、ぶわりと涙が溢れる。それだけでなんとなーく状況を察した斉藤タカ丸は、飛びついてきた深赤をしっかりと抱きとめて苦笑しながらとりあえずその髪を撫でた。
澄姫が落ち着くまで撫で続けていたタカ丸は、眉を下げながらしゃくりあげる彼女を岩に座らせ、で、と問い掛ける。
「…一体どうしたの?そんなに泣いて…ひょっとして、喧嘩でもしちゃった?」
誰が、とまでは言わなかったが、タカ丸はまるでお見通しだよとでも言わんばかりの瞳で彼女を見つめる。それを受けた彼女はくのいち教室で彼が大人気な訳が少しだけわかった気がした。
「……タカ丸くんは、どうして裏々山に?」
「僕はね、4年生の実習。まだ見学だけどね」
サラサラと静かな水音とタカ丸の優しい声が鼓膜を揺らし、澄姫は自身を落ち着かせるために一度深呼吸をすると、重い口を開き先程見た光景を彼に話した。
「………そっかぁ、中在家くんが、カメ子ちゃんから…うーん、普通恋仲がいたら他の子からの贈り物は断ると思うんだけどなぁ」
「でしょう?もう、なんだか腹が立って…悔しかったの、すごく」
泣き腫らして赤くなった鼻を擦りながら、澄姫は包みの赤いリボンを解く。結び目に飾られていた四葉のクローバーがふわりと落ちて、川の流れに消えていった。
「福富屋さんのお嬢さんが相手だなんて、勝ち目がないわ」
「勝ち目がないって、どうして?」
「だって、福富屋の娘さんよ?結婚したら逆玉の輿、将来安泰確実じゃない。それにあの子はきっととてもいい子だわ。ひどい態度の私にも笑顔で対応して、しんべヱの妹だったら優しい子に決まっているもの。私みたいに、小さなことですぐ嫉妬したり怒ったり、しないわ…」
悲しそうに呟いて、澄姫は包みを開く。
彼女のこころのようなビスコイトは、包みの中で数個割れていた。
「それに、今は確かにまだ小さいけれど、歳の差なんて大きくなったら関係ないでしょうし。男の人って若い子が好きでしょう?」
割れたビスコイトの欠片をひとつ抓んだ白魚のような指が、タカ丸の口元に寄せられる。それを何の抵抗もなく口に含んだタカ丸は数回咀嚼し、おいしい、と微笑んだ。
「…まあ、否定はしないけど。でも澄姫ちゃん、カメ子ちゃんにいいところがあるように、澄姫ちゃんにもたくさん素敵なところがあるよ」
ごくん、とビスコイトを飲み込んだタカ丸は、普段よく見るふにゃりとした笑みで彼女の前髪を払う。
「澄姫ちゃんはとっても美人だし、スタイルも抜群。髪もこんなにサラサラで綺麗だし、強いし、お勉強も出来る。それに、僕は知ってるよ。君はとっても優しくて、面倒見も良くて、ちょっと意地っ張りだけど、素直で可愛らしい女性だって」
だからもう泣かないで。そう締めたタカ丸は、再度涙が溜まり始めた目尻を優しく拭った。
「…ありがとう、タカ丸くん。すっかり実習見学の邪魔しちゃったわね、ごめんなさい」
「んーん、大丈夫。中在家くんには僕からもちょっと言っておくから、今日はゆっくりしてね。あ、ちゃんと目、冷やしたほうがいいからね」
優しさを一言添えて温かい笑顔をくれたタカ丸に、澄姫は素直に頷いて、あ、と思い出したように持っていた包みを彼に渡す。
「話を聞いてくれてありがとう。これ、ちょっと割れちゃったけれど、滝たちと食べて」
「え、でも…」
「いいの。だってあんな光景見せられて尚これを渡したら…なんだか都合がいい女みたいで、癪に障るもの…」
苦笑して学園に戻っていった澄姫を見送ったタカ丸は、渡されたビスコイトをじっと見つめ、暫くしてから、よし、とひとり頷いた。
その日の夜、タカ丸から話を聞いた4年生は大激怒。特に彼女の実弟である滝夜叉丸の怒りはそりゃあもうひどいもんで、彼は単身6年長屋に突撃。
「いくら好意が断り辛いからといえど無神経です中在家先輩!!姉上のお気持ちも少しは考えてください!!」
小平太すら震え上がらせる勢いで青褪める長次に怒鳴った彼を止めに来たはずの守一郎は留三郎の隣でおろおろ、罠を仕掛けたはいいがその全てに伊作がはまってしまった喜八郎は膨れっ面で澄姫お手製のビスコイトを頬張り仙蔵は苦笑い、ユリコを引きずってきた三木ヱ門を文次郎が何とか宥め、やっと騒ぎは沈静化…
したと思われたのだが、翌日からがもっと凄惨だった。
「中在家先輩、澄姫先輩を弄ぶだけ弄んで傷付けたってユキちゃんたちが話してたんですけど…」
「中在家先輩、あの…澄姫先輩からの贈り物を無碍にして泣かせたってトモミが…」
「ちょ、長次…向こうで猪々子たちが『長次が浮気して澄姫捨てた』って噂してた…」
「!!!?」
【どこかから】話を聞いたくのたまたちの恐ろしい報復活動に、沈黙の生き字引は食券を放り出し、大慌てで恋仲のご機嫌伺いに奔走することとなった。
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