その女、還る

突然の澄姫の行動にきょとんとしている月妃をよそに、澄姫はぐいぐいと豊満な胸を男の腕に押し付け、しきりに甘えた声を上げて擦り寄っていた。

「え、えー?お兄さんちょっと恥ずかしいなぁ。し、知りたいって何を?」

「いやぁん、そんなコト女の子に言わせないで…?」

恥ずかしそうに頬を染め、いじらしく白い服の袖口を弄ぶ澄姫。最初は戸惑っていた男もあっという間にだらしない笑みを浮かべて見事な身体を抱き寄せる。

「ねえお兄さん、お名前は?」

「え?あ、アスモデウスでぇす」

「あすもで…?」

「アスモデウス」

「あすも、でうす…ね。うん、もう覚えたわ。あすもでうすさんね、ふふっ」

男の名前を聞きだした澄姫は嬉しそうに笑うと彼の首筋に柔らかな頬を擦りつけ、そのまま見事な角度の上目遣いでねーぇ、と囁いた。

「あすもでうすさん、私のお願い、聞いてくれる?」

「あっはー、澄姫ちゃんったらいきなりそんな甘えちゃって可愛いんだから!!対価が要るけど、澄姫ちゃんのお願いなら特別大サービスで聞いちゃおっかなー?」

「きゃあ、優しいのね。あのね、私、三つお願いがあるのだけれど、もし叶えてくれるなら…」

そこで一旦言葉を区切った澄姫はもじもじと恥ずかしそうに潤んだ瞳を伏せて、彼の耳元で甘く囁いた。

「私の大切なモノ、あすもでうすさんに…あ、げ、る」

ゆっくりと告げられたその一言で、男は目をぎらつかせてごくりと生唾を飲み込んだ。今にも鼻血が出そうな形相に傍観していた月妃も若干引いている。

「た、大切なモノ…っ!!?き、聞く聞く!!お兄さんなんでも聞いちゃうよー!!」

「本当?約束よ?」

「悪魔に二言はないっ!!」

満面の笑みで胸を叩いた男に、澄姫もまた満足そうに頷いてじゃあ、と赤い唇に人差し指を当てた。

「まずひとつ目…過去のことも含めて、改竄したみんなの記憶をしっかり全部元に戻して頂戴」

「お安い御用さぁ!!」

意気揚々と返事をして、ぱちんと指を鳴らす男。

「じゃあふたつ目ね…月妃のいた世界の時間を戻して欲しいの。そうね、できれば天女とやらが学園にやってきた日くらいに…できる?」

「できるできる!!勿論できる!!」

これにも意気揚々と返事をして、ぱちりと指を鳴らす男。
それを確認した澄姫はちょっとごめんなさいね、と一言断り男に耳を塞がせ目を閉じさせると傍から離れ、月妃に歩み寄り些か乱暴に彼女を立たせた。
すっかり流れに置いていかれた月妃が目を白黒させながら彼女を見ると同時に鳴り響いた、乾いた音。
またもやとんできた平手打ちに、唖然と頬を押さえた月妃は目の前でぐっと唇を噛んでいる女を見た。

「いつまで呆けているつもり?この私がここまでお膳立てしてやったのよ、有難うございますとひれ伏したらどう?まったく、情けないにも程があるわ」

「え…?」

「え?じゃないわ。私の言葉聞いていなかったの?…貴女、私の同一なんとやらなんでしょう?だったら呆けてないで、自分のものくらい自分の力で取り返してきなさいな。奪われたら奪い返す、やられたら叩き潰す勢いでやり返しなさいよ。諦めて泣いて逃げるだなんて誰でもできること、金輪際しないで頂戴!!」

胸ぐらを掴まれ怒鳴られ、きょとんとしていた月妃の瞳に光が宿る。

「あ、貴女に何がわかるのよ!!恵まれてる貴女に、何が…!!」

「そうやって僻むのもおよしなさい!!情けない!!私はね、貴女みたいに軽率に動いたり諦めたりしなかったわ!!長次に思いが届かなかった時も、長次にないがしろにされた時も、知らない女に長次を奪われた時も、絶対に諦めたりしなかったわ!!だからこそ今の私がここにあるのよ!!人のものを羨んで欲しがる前に、まず自分で掴み取る努力をしなさい!!」

額がくっつきそうな距離で迫力の美女に怒鳴られ、月妃は悔しそうに歯を食いしばった。心の内を言い当てられ、自身の惨めさが浮き彫りになり、更にそれを突きつけられ、ぐうの音も出ないのが余計に悔しかった。

「あっ…貴女、なんかに…言われなくたって…ッ!!!」

闘志を秘めた瞳で呻いた月妃をじいっと見据えた澄姫は暫く彼女の目を覗き、ふと表情を緩めたかと思えば先ほどまでの甘ったるい声で男の元に戻って行った。

「ごめんなさい、お待たせ。じゃあこれが最後ね。あの子邪魔だから、元の世界に戻してくださる?」

「ん?元のってさっき時間を戻した?わぁ、澄姫ちゃんて可愛いだけじゃなくて優しいんだねェ!!」

そして鳴らされた男の指。
音と共に月妃の足元に大きな黒い影が口を開け、彼女の体が引きずり込まれていく。
決して男に見られないように、声を出さず口の形だけで『がんばれ』と伝えた澄姫の気持ちが通じたのだろうか、影に消えていく月妃はぐっと息を呑み、絞り出すような声で『ありがとう』と言い放ち、そして、消えた。

全くはた迷惑な女だったと彼女が消えた影を見ていた澄姫の背後で、息が荒くなっている男。内心げんなりしながらも笑顔を作り、彼女は懐からひとつの包みを取り出した。

「どうもありがとう。じゃあ…」

「そ、それが澄姫ちゃんの大切なモノ!?」

「そうよ。ふふ…私ってこう見えて、優しいだけじゃないの。特に夜は…」

卑猥な意味を含んでいそうな一言に、男の呼吸はますます荒くなる。しかし澄姫はそれどころではないとそわそわもじもじ。取り出した包みを男の胸に押し付けて、顔を真っ赤にして蚊の鳴くような声で呟いた。

「これ、ちょっと驚いちゃうかもしれないけれど…あげる。は、恥ずかしいから、家に帰って、ひ、ひとりで見て頂戴!!ぜ、絶対よ!!」

林檎のように赤くなった頬、潤んだ瞳、恥ずかしさゆえにか口篭り、そのままキャーといって顔を覆う絶世の美女の姿にノックアウトされない男がいるだろうか。いや、いない。
ちょっと驚いてしまうらしいモノを受け取りごくりと生唾を飲んだ男はとうとう堪えきれなくなった情熱を鼻から迸らせ、がくがくと首が折れそうなほど頷くと包みを大事そうに抱えて影に紛れて消えた。
彼がいなくなったと同時に凍り付いていた時間が動き出し、澄姫の手によって目を覆われていた長次が突然のことに驚きその場につんのめる。
まるで狐に抓まれたようにぼうっとしている忍術学園全員の中心で、澄姫はようやく己が手に戻ってきた日常に大きく息を吐いた。

それに安堵が含まれていないのは、彼女にとって一番の問題がまだ解決していないからだろう。


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