弱音


色んな意味で衝撃の昼休みが終わり、ぞろぞろと各教室へ戻っていく生徒たち。
滝夜叉丸の意外な姿に驚き、雷蔵の豹変に怯え、三郎の災難に同情し、姉がいるものはその存在に、その理不尽さに溜息を吐きながら、ひとり、またひとりと食堂を後にする。

その喧騒の中、一人取り残されているのは心愛。
彼女はその傷一つない手を握り締め、怒りに震えていた。

一体何が起こったというのか。
せっかく自分の思い通りになっていたのに。
お姫様のような持て囃されぶりだったのに。

(…あの女のせいで…あの女のせいで!!全部台無し!!)

心愛は先程目の前で自分から離れていった男を視線の先に捕らえた。
先程まで心愛の傍で、心愛だけに、幸せそうに頬を染めて笑っていたのに、彼らは既に心愛のことなど忘れたかのように、今はもう友人の隣で楽しそうに笑っていた。
心愛の傍には、もう長次一人しか居ない。
反して、澄姫の傍には、たくさんの人だかり。

こんな筈ではなかった。
神様は言ったではないか、補正を付けてくれたと。
皆が私に夢中になると、ちやほやしてくれると。

ぐるぐると黒い感情が心愛の思考を支配していく。
怒りの余り色をなくした心愛の表情を、長次は黙ってじっと見つめ、そっとその背中に手を伸ばした。

「…心愛…顔色が、優れない…部屋に送る…」

そう優しく声を掛け、そっと食堂を出て行った。

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わいわいと楽しそうな後輩たちの傍で、澄姫はその光景を見つめていた。
仙蔵がそんな彼女の様子に気付き、ついと袖を引き廊下へと連れ出す。

「どうした澄姫、そんな浮かない顔をして。ここまで計画通りに進んでいるのだ、いつものように高笑いの一つでもしたらどうだ?」

彼らしい物言いに、澄姫はくすりと口角を上げた。
だがそれも一瞬のことで、その表情はすぐに切なげに歪められる。

「ええ、計画通り。今までの学園の雰囲気に戻りつつある。でも…」

そこまで話し、澄姫は仙蔵の胸にぽすん、と顔を埋めた。

「完全には、元に戻らない」

小さく呟いて、彼の装束をぐっと掴む。
らしからぬ弱気な彼女の態度に、仙蔵は澄姫の震える肩をそっと抱き寄せた。
顔を埋めたままくぐもった声で、彼女ははっきりと告げていなかった思いをぽつりぽつりと語り出す。

「最初は怒りだった。あの程度の女に惚れて去って行った長次にも、あの女自身にも腹が立った。だから、全て奪い返してやろうと思って今回のことを企てた。弟を、同級生を、後輩を取り戻して、幾分か気分は晴れたけれど、でも…」

ゆっくりと顔を上げ、澄姫は仙蔵を見つめる。
その瞳には大粒の涙が浮かび、頬は濡れていた。

「あの女から長次を取り戻したとしても、心は既に離れてしまった…」

そう言ってとうとう嗚咽を零し始めてしまった澄姫に、仙蔵は形のいい眉を顰めた。
今までの様子からは窺い知れない、澄姫の苦悶を目の当たりにして、彼は楽しんでいた自分を責めた。
そう、元々澄姫はこの学園に依存していたわけではない。
外部から得体の知れない女が一人紛れ込んだだけで、ここまでムキになって張り合うような気性の荒い女ではないのだ。
自分と同じで責める気質ではあるものの、あくまで惑わされたのは彼ら。
忍者のたまごとも在ろうものが、と思うが、実際色に溺れてしまったのは彼らの鍛錬が足りなかったから。
いってしまえば自業自得なのだ。
自らの鍛錬にもなるとはいえ、同級生や後輩を誘惑して(とても楽しんでいたが)、正気に戻すのは澄姫一人がやったこと。
仙蔵たちはそれを胡坐をかいて見つめていただけで、何もしていない。
彼女は飄々としていたが、好いていた男に別れを告げられ辛くない筈がない。
それをひたすら押し隠し、いつものように不敵に笑っていた。
下級生のため、後輩のため、仙蔵たち友人のために、奔走していた。

まして彼女は賢い。あの女の幻術を解いたところで、全てが元通りにならないということは、初めからわかっていたのだろう。
仙蔵は今やっと気付いた。
あんな女が居ない、いつもどおり、いままでどおりの穏やかな学園。
その中には『美女と野獣』と囁かれていた友人たちの仲睦まじい姿も含まれているではないか。
あんな女も、それに付き従うような友人も、不安な顔をした下級生も、こんな儚げな彼女も、誰も望んでいないのだ。

仙蔵はぐっと澄姫の腕を掴み、立ち上がらせる。
そして、強い意思を秘めた瞳で、彼女の潤んだ瞳を見た。

「何を弱気になっている、澄姫。魔女とまで言われたお前が情けない」

「せん、ぞ…?」

「まだ終わってはいない。あの女から長次を取り戻せ。思い知らせてやればいいのだ、お前はこんなにいい女だと、勿体無い事をしたのだと。長次は聡いからな、すぐに理解してくれる。そして、またお前に惚れ直すだろう」

「い、以前告白して、恋仲になって貰ったのも、私から言ったからなのに?」

「…(そうだったのか)……ならば今度は惚れさせればいいだけだ」

「惚れ、させる…?」

ぐしゅぐしゅと存外可愛らしく鼻を啜りながら、徐々に澄姫の潤んだ瞳に光が宿る。

「ああ、もし駄目なら、私がお前と恋仲になってやろう」

親指の腹で澄姫の零れた涙を拭ってやりながら、仙蔵が優しく微笑んで言った言葉に、澄姫は驚きの余り目を見開いた。

「は!!?本気!!?」

「いや、冗談だ」

けろりと表情を変えず言ってのけた仙蔵に、澄姫は思わずすっ転んだ。
よろりと立ち上がった澄姫の涙はもう引っ込んでおり、乾いた笑いを零していた。

「真面目な話、あの女これからどう出るか…見た所かなり怒り心頭の様子だったからな、警戒したほうがいいかもしれん」

きりりと表情を引き締め、仙蔵がそう澄姫に忠告する。
先程までのやり取りですっかり元気になった澄姫は、彼のそんな忠告を鼻で笑い飛ばした。

「冗談、あんな女に何が出来るというの?返り討ちにしてやるわ」

「ハッ、恐ろしいな。それでこそ澄姫だ」

そう軽口を叩き合うも、彼の忠告をしっかりと頭の奥に叩き込んで、彼女はぽこ、と仙蔵の胸を叩いて小さく呟いた。

「…吐き出させてくれて、ありがとう」

そう恥ずかしげに笑う澄姫の笑顔は、自信に溢れた強く美しいものだった。


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「出るに出れないな…」

そう呟いたのは留三郎。その上下にまるでトーテムポールのように顔を覗かせて、各々溜息を吐く。

「並んで笑ってれば絵になる美男美女なのに…」

「っていうかさっきの立花先輩ちょっと本気だったのかな?」

三郎と雷蔵がこそこそと喋る下で、勘右衛門が八左ヱ門を突きながらにやけた顔で

「中在家先輩と上手くいかなかったらハチが奪っちゃえば?」

と言った。その軽くて重い一言に真っ青になった八左ヱ門が

「あんなドSな先輩、俺には無理…」

とめそめそ泣き出した。

そんな様子をぽけっと見ていた小平太が突然駆け出し、澄姫の背中に飛びついた。
呆然とする彼らをよそに、小平太は驚く仙蔵と澄姫ににっこりと笑って

「ならば私が澄姫を嫁に貰う!!私は本気だぞ!!」

と、爆弾発言を落とすのだった。

驚きの余りその場に居た全員が大きな声で叫んだので、聞きつけた山田伝蔵が
「さっさと教室へ行かんか!!」
と、怒鳴った。



まるで蜘蛛の子を散らすように走り去った上級生をやれやれといった顔で見つめ、伝蔵は踵を返し、学園長の庵へと消えた。


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