その女、取り戻す

目の前に躍り出た深緑に息を詰まらせた澄姫。
酷い仕打ちを受けたにもかかわらず、その背中を見ただけで彼女の胸は高鳴る。勿論聡明な彼女の脳裏には『また傷付けられるかもしれない』という考えが浮かんだのだが、それすらも霞むほどの、圧倒的存在感。
驚きと困惑と期待感で一切の動きを止めてしまった澄姫の華奢な身体を掻っ攫うように抱きこんだ深緑は、小平太から視線を外さないまま栗色の髪を風に靡かせて彼の拳の延長線から退き、小さく呟いた。

「……小平太………待て…」

「おう!!」

妙な威圧感を放つ低い声に、瞬時に反応してその場でびっと気をつけの体勢になる小平太。まるで飼い主と忠犬のようなその姿に、その場に居合わせた全員の目が点になる。

暫く沈黙がおり、ひゅるりと一陣の風が吹きぬけた直後、誰かの喉がくっと鳴った。

「…っはははは、ははははは!!さながら猛獣使いだな、長次!!」

「くっ、同感だな。つーか仙蔵笑いながら俺を蹴るんじゃねえよ!!」

「あははは!!いっ、たたた…留三郎、頭大丈夫かい?」

「ハハッ!!…その言い方は悪意しかみえねぇぞチクショー!!」

「七松先輩…委員会でもそれくらい聞き分けがよければ…!!」

「おやまあ滝、どんまい」

各々腹を抱えて笑い転げ、悔しそうに地面を叩くその姿。長次の逞しい腕に庇われたままその光景に見入っていた澄姫の耳に、更に賑やかしい声が押し寄せる。
肩越しに振り向けば、満面の笑みで、潤んだ瞳で駆けてくる色とりどりの忍装束。
遅れがちな子の手を引き、転びそうな子の体を支え、普段は大人びた子が大粒の涙を流し、ぶんぶんと無邪気に大きく手を振りながら叫ぶのは、尊敬している大好きな大好きな先輩の名前…。
深緑、群青、紫、そして渋柿に飛びついた後輩たちは真っ赤な頬と目尻を隠すようにぐりぐりと装束に顔を押し付け、その小さな手で彼らの手や腕をしっかりと掴んでいた。
普段は厳しい会計委員会の鬼委員長もぐっと唇を噛み締めてされるがまま、飄々としている作法委員会の委員長も目尻を染めて後輩たちの頭を撫で、図書委員会と用具委員会の委員長は完全に長期出張から帰ってきたお父さんのようになっており、火薬委員会委員長代理は自分より体の大きな後輩のタックルだけ華麗にスルー。
体育委員会は一家離散の危機を回避した家族のようで、何故か学級委員長委員会は井桁2人に正座させられているし、保健委員会の委員長は飛びつかれた際受け止めきれず水溜りに足を取られて全員仲良くひっくり返り泥まみれ、そして…

「「「「わぁーん!!澄姫先輩、竹谷先輩ぃ〜!!!」」」」

「わーもーお前ら泣くな!!泣くな!!」

1年生の人数が一番多い生物委員会の委員長は、チビに纏わりつかれて焦る八左ヱ門を尻目に、無言で俯いたままジュンコを撫でる孫兵と向き合っていた。
何か言いたそうに口を開いてはまた閉じる孫兵をじいっと見つめていると、意を決した凛々しい瞳とやっと視線が絡まり、澄姫は緩やかに首を傾げる。
普段から後輩の声を聞く時に彼女がよくするその仕草に、孫兵は唐突にぼろりと大粒の涙を溢れさせた。

「…お、大山兄弟が、痩せていました」

「…そう」

「き、きみこが、きみ太郎とに、睨み合ってました…っ」

「…そう」

「こま、小町も、小屋の隅で、う、蹲って、動かなくて…!!」

言葉に詰まりながら生物たちの状態を報告する彼に静かに相槌を打っていた澄姫は、切なそうに瞳を伏せる。
愛情を持って育てていた生物たちが、彼女が不在の間面倒を見るものがおらず痩せて弱って行くさまを聞かされ、胸が締め付けられる。その状況を薄々推測できていた彼女は、八左ヱ門と対面した際、いの一番に彼を叱り飛ばし飼育小屋に駆けつけさせたのだ。
最悪の事態…共食いなどが起きていたのか静かな声で問い掛けた彼女に緩く首を振った孫兵は、ぐっと拳を握り締めてでも、と呟いた。

「ぼ、ぼくは、ぼくは、生物たちがそんな状態になってることにも気付かなかったんです…」

震える声でそう呟いた孫兵は、零れる涙を拭いもせず、綺麗な顔をあげて澄姫を見る。

「ぼくはっ、澄姫先輩がっ、学園からいなくなったことにもっ、気付かなかったんですっ!!」

人と関わることを面倒だとよく零している彼の口から発せられたその一言に、彼女は目を見開いた。全身で寂しかった、不安だった、悔しかった、情けなかったと訴える孫兵にその場の生徒たちは全員息を呑み、数人の生徒は不甲斐無いと口を噤む。
そんな彼らの顔をくるりと見回した澄姫は、大きく息を吐くと芝居がかった仕草で絹のような髪を掻き上げた。

「…まったく、今回ばかりは心底呆れ果てたわ。長次には傷物にされるし、あんな簡単な変装なのに誰も気付かないし、挙句の果てには侵入者扱い…の癖に防衛ラインはガッタガタ。あんな女1人にほぼ全員が惑わされて、情けないったらないわ」

冷たい瞳で吐き捨てた彼女は、耳が痛そうにしている人物の顔を特にじっとりとねめつけるとその場でくるりと踵を返して、空を見上げる。

「…そんな不甲斐無い忍術学園には、やっぱり優秀なこの平澄姫がいないとだめね」

自信満々に言い放った彼女の背中に、感極まった生徒たちがどっと飛びついて行く。口々にお帰りなさいと告げる彼らを背に貼り付けまま彼女が見上げた空はどんよりと曇っているが、いつの間にか雨雲は去っていたようだ。
それなのに澄姫の頬が濡れているのは、はて一体どうしてだろうか。


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