その女、驚く

彼のすぐ隣で魔王の笑顔を見てしまった伊作はひぃっと情けない悲鳴を漏らし、木の陰からじぃっと状況を伺っていた喜八郎はげぇ、と嫌そうに顔を顰める。どうやら作法委員会の勘が働いたらしい。穴掘りで鍛えた腕で滝夜叉丸の首根っこを引っ掴み、仙蔵から距離を取る。

「まったくもって情けない」

にぃっと吊り上った口からそう漏らし、仙蔵はゆったりとした仕草で腕を組んだ。

「説得も聞く耳持たず、“あの”気付け薬も効かん、いやいや、恐れ入った」

腕を組んだままゆっくりと足を進める仙蔵に、留三郎は不思議そうに首を傾げているだけだが、同室の文次郎は違った。
強敵の曲者を相手にした時とも違う、侵入者を見つけた時とも違う、ただただ『立花仙蔵』という男を相手にする時だけに働く勘が、ひたすらに危険だと告げている。
無意識にごくりと喉を鳴らし、恐怖などではなく『今までの6年間』で仙蔵に植え付けられた何かが彼の手を震わせた。
だらだらと冷たい汗を流す文次郎の前に辿り着いたその瞬間、仙蔵の笑みはますます凶暴性を増す。

「丈夫で健康な胃袋を持つ貴様たちに敬意を表してあのボーロの材料を特別に教えてやろう……まず卵、小麦粉」

そして、聞いてもいないのに彼はつらつらと芝居がかった仕草で、澄姫特製の気付けボーロの説明をし始めた。仙蔵の話術に口を挟むことができず黙っていた滝夜叉丸と喜八郎の顔色が、徐々に青褪めていく。

「砂糖の代わりに蜂蜜、山茶花の花びら、ドクダミ、オオバコ、山椒、唐辛子、夏に捕獲して保存しておいた蝉とカブト虫をカラッと揚げたもの、蚕、蚯蚓、蜂の子、ザザ虫…」

「……お、おい、おい、仙蔵!!途中からなんか飛ぶものや這いずるものが混じってんぞ!!」

慌てふためいた留三郎がそう言うも、仙蔵はただニタニタと笑うだけ。

「飛ぶものや這いずるものだけではないぞ。他にも×な×や××、×の××やら×××やら××××やらも混入…失敬、調合…も違うな…隠し味として入っているらしい。よかったな、珍味とやらをたくさん食べられて羨ましい限りだ」

いやらしい笑いの仙蔵から告げられた気付けボーロの衝撃的内容物に、食べてしまった留三郎、文次郎、小平太はおろか口にしていない滝夜叉丸と喜八郎も口を押さえてその場で立ち竦む。
想像してしまったのだろう立ちくらみを起こした4年生2人…しかしさすがに6年生は根性も養われているようで、何とかせりあがってきたものを堪えた留三郎が
震える手で仙蔵を指して怒鳴り声を上げた。

「てめ、…ぉえっ、てめぇ仙蔵!!伊作もだが!!なんでお前らその女の味方をしてんだよ!!違うだろ!!侵入者は、敵はその女じゃねぇのかよ!!」 

「そ…そうだ!!仙蔵てめえ、何をトチ狂っていやがるこのバカタレ!!」

普段は犬猿の仲といわれるが、いざと言うときはやはり息が合うらしい。
留三郎に文次郎が同調したその時、がつりと硬い音が響いた。

何が起きたのか理解できない顔で地面に尻餅をついた文次郎と、呆然とした留三郎。ぎょっとした伊作が言葉を発しようとしたが、彼の声は怒声に掻き消された。

「バカタレは貴様だ文次郎!!それでも私の同室か!!こともあろうに貴様が、貴様がっ、澄姫を敵だなどとっ、誑かされていたとしても許しがたい発言だっ!!」

鬼のような形相で怒鳴りつけた仙蔵の拳が、じんわりと赤く染まる。普段冷静沈着な彼の…いや、それよりもいままで凶悪な笑みを浮かべていた彼が突然豹変して文次郎を殴りつけたことに、留三郎や小平太はおろか澄姫までもが驚きを隠せない。
しかし一番驚いているのは文次郎で、殴られて熱を帯び始めた頬にそっと手を当て、目を大きく開いて肩で息をする仙蔵を見上げていた。
犬猿が同調したためか、それともただの気紛れか、ぽつりぽつりと地面を打ち始めた冷たい雨がその場の熱を冷まし始める。
しばしの沈黙のあと、ふらふらと立ち上がった文次郎は覚束ない足取りで仙蔵に歩み寄り、雨に濡れた所為で額に張り付いた彼の前髪にそっと触れた。
そこから覗いた意思の強い瞳に、文次郎は大きな石でがつんと頭を殴られたような衝撃を感じる。それと同時に、彼の脳裏に今まですっぱり忘れていた“ある大切なこと”が津波のように押し寄せ始めた。

「あ…あっ…!!?すまん仙蔵、すまん!!」

なにやら神妙な顔で謝り始めた文次郎に、澄姫は伊作と顔を見合わせ、訳がわからないといったように首を傾げる。
小平太と留三郎も同じ気持ちのようで、訝しそうに顔を見合わせていた。

「すまん、俺あの…いや、ちょっと待て、あ?澄姫?」

「まだ思い出さんのか!?ならばとことんまで痛めつけてやる!!」

「ま、待て待て仙蔵思い出した思い出した!!澄姫、思い出した!!というか、何故こいつを忘れて…あの怪しい女のせいか!?」

仙蔵に再度拳を握られ冷汗だらだらの文次郎が何とか惨劇回避しようと大慌てでそう言えば、訝しげだった留三郎と小平太の眉もピクリと動く。そこに好機を見出した伊作が、留三郎に駆け寄って彼の肩を掴みがくがくと揺すった。

「留三郎、留三郎も思い出したよね!?澄姫だよ、澄姫!!」

「あがががが!?いさいさ伊作おちおち落ち着け!!」

「ほら早く思い出して!!ほらほら、ほらほらほら!!」

伊作も何だかんだで寂しかったのか、留三郎を正気に戻そうとがっくんがっくん彼を揺する。するとそこでお約束のように、揺すられた留三郎と強かに頭をぶつけ、お互い喋っていた為に勢いよく舌を噛んだ。
まさかの不運発動とあまりの痛みに、2人は声も出せずに口を押さえてその場に蹲る。
コントか、と失笑した澄姫だが、ほのぼのしかけていたその場に迸った恐ろしいほどの殺気に反射的にその場を飛び退く。くるりと猫のように身体を捻って体勢を整え顔をあげれば、視界に飛び込むのはひたすら仙蔵に謝っている文次郎と、蹲る留三郎と伊作、遠く離れた弟とその友人、そして、彼女の一番近くに、顔色は若干悪いが不敵に笑った暴君。

「っ、最悪だわ」

3人を相手にするよりはるかに状況はいいが、それでも残ったのがよりによって暴君七松小平太。美しい顔の横スレスレを通った突きの人間離れした風圧に、彼女の血の気が下がっていく。
とてつもない速さで突き出される拳を何とか避けたが、それでも繰り出され続けるそれにとうとう対処しきれなくなり、目前に迫ったひとつの無骨な拳。
避けきれない、と覚悟を決めた澄姫が直後自身を襲うであろう激しい痛みを予想し、ぐっと歯を食いしばったその時

目の前に突如現れた深緑に、閉じかけた瞳を見開く。
驚きに染まった彼女の瞳に映った深緑は、彼女がずっとずっと見つめ続けていた、愛しい大きな背中と、見惚れるほど綺麗な真っ直ぐの栗毛だった。


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