その唇、猛毒

できるだけ気配を消した澄姫は、もう隅々まで熟知している忍術学園の天井裏を匍匐前進で進んでいく。
天井板の隙間から時々見えるのは、普段となんら変わらない光景。
ただひとつ、それでも確実に違和感を感じてしまうのは、そこに見慣れた教師や後輩、友人たちの笑顔が存在しないところ。
普段と変わらない声で、振る舞いで、しかしどこか虚ろな目をして動いている彼らに、澄姫は寂しさの滲む瞳を向ける。
本当は今すぐにでも彼らの目の前に降りていきたい。
縋りついて、忘れないでと泣いてしまいたい。
自分と彼らの間にある絆は、あんな妙な女なんかに壊されてしまうほど脆弱ではないと喚きたい。
しかし、彼女は涙を呑んでそれらの感情を押し込めた。
何故なら彼女はくのいちのたまごであるから、普通の女のようにただ泣いているだけでは何も変わらない厳しい現実を知っている。
そして、くのいちのたまごであってもまだ年端もいかない少女だから、大切なひとに拒絶されたことへの辛さ、悲しさを忘れることが出来ない。
引っ叩いてでも、殴ってでも、自分のことを思い出して欲しい。
でも、もし思い出してくれなかったら?
忘れないでと縋りつきたい。
それで見ず知らずの他人を見るような目を向けられてしまったら?
強い絆で結ばれていると思った人に、刃を向けられてしまったら…それこそ、今度こそ、彼女はきっと壊れてしまうだろう。
そして今はまだ数人自我を保っている者もいるが、ぐずぐずしている間に件の女の術中に嵌ってしまったら、それこそ打つ手がなくなってしまう。
後ろ髪を引く思考を軽く頭を振って脳内から追い出した澄姫は、気を引き締めて本来の目的であった忍たまの4年長屋に向かい、身体を動かし始めた。


校舎から長屋に移り、通算3つ目の蜘蛛の巣が彼女の綺麗な髪に引っかかったところで、やっと覚えのある気配を察知した。
物音を立てないように細心の注意を払いながら気配に近付き、天井板の隙間からそっと覗き込むと、そこはどうやら4年ろ組の田村三木ヱ門と浜守一郎の部屋らしく、斉藤タカ丸を交えてなにやら勉強会を行っている様子。
火薬…というか火器について熱弁している三木ヱ門を天井裏から眺めた澄姫は柔らかく目を細め、ボーロを箱から取り出しひとつずつ両手に持つと、目にも止まらぬ速さで天井板を蹴り飛ばして彼らの目の前に降り立った。

「なっ、はぶ!!」

いち早く彼女に気が付いた三木ヱ門が口を開いた瞬間を狙い、気付けボーロをぶしゃりと口といわず顔面に叩きつける。
そのままもがく彼の口から手を離さないままでいると、とうとう苦しくなったのか大きく息を吸い込んだ三木ヱ門は空気と共にボーロも招き入れてしまったようで盛大にむせ、へぐっと短く呻くと可愛らしい顔を土気色に染め上げてその場に倒れた。

「うっ、うわぁぁぁ!!」

「三木ヱ門くん!!こっ、このぉ!!」

まだ編入して日も浅い守一郎は突然の侵入者に驚き、腰を抜かしたのかその場に尻餅をついてしまった。対してタカ丸はある程度騒動に慣れたのか、愛用の鋏を取り出して守一郎を背に庇い、勇猛果敢に澄姫に飛び掛る。
しかしその鋏が掠めた髪を見て、目を見開いたのはタカ丸。

「超美髪!!!ぼ、僕には、この髪を辻刈るなんてできない!!!」

心底悔しそうに、そしてうっとりとした瞳を向けて叫んだ彼に優しく微笑んだ彼女は、なんの躊躇いもなく背の高い彼の顔面にボーロを叩きつけた。衝撃のせいかそれともボーロを飲み込んでしまったせいか、原因は定かではないがそのままばったりと倒れて動かなくなったタカ丸を満足そうに見下ろした澄姫は、あっという間に2人を文字通り倒してしまった渋柿色の装束の侵入者に震え上がっている守一郎にゆっくりと近付き、三木ヱ門に叩きつけた残りのボーロを彼の目の前に差し出した。

「ひっ…」

「安心しなさい、毒なんて入っていないから。その2人もじきに目を覚ますわ」

「くっ、曲者の言うことなんか信用できるもんか!!」

しかしその手を気丈に振り払った守一郎は、震える身体を叱責して拳を握る。ぽて、と床に落ちたボーロをきょとんと眺めた澄姫は彼と握られた拳を交互に見ると、にんまりと笑って大きな赤いサングラスをゆったりした動作で外した。

「うふふ、いい心がけね」

目線を合わせて囁き、赤く艶めく唇でサングラスのつるをそっとなぞる。
一連のその仕草と、露になった澄姫の美貌に守一郎の頬が瞬時に赤く染まった。しかし即座に首を振り、邪な考えを霧散させた彼は握った拳を突き出すが、それはあえなく彼女に掴まれてしまう。
そのまま体重をかけられ、床に倒された守一郎は体勢を立て直そうともがくが、暴れるたびに澄姫の唇やら鎖骨やらに目を奪われてしまい、恥ずかしさのあまりきつく目を閉じてしまった。

「ひっ、卑怯だぞ!!」

「卑怯?なにが?」

「〜〜〜ッ、曲者なら曲者らしく、かっ、顔とかちゃんと隠せ!!」

「顔とか?とかって、他にはどこを隠せばいいのかしら?ねえ、ちゃんと言って?」

目を閉じている守一郎は気付かない。そのいたいけな仕草に楽しくなってしまった彼女が至極楽しそうに笑っていることに。
澄姫の色気たっぷりな物言いにとうとう目だけでなく口も噤んでしまった守一郎は、遮断された世界で唇に触れた柔らかなものに飛び上がるほど驚いて目を開けてしまった。
至近距離にある、真っ赤な唇。

「…うふふ、顔、真っ赤よ。可愛いのね…食べてしまいたいくらい」

それが三日月のように弧を描き、紡ぎ出された言葉にとうとう守一郎の顔は茹蛸のようになってしまった。
色々な意味で許容量を越えた彼は小さく、おかあさぁん、と呟くとその場に倒れてピクリとも動かない。
そんな彼と、彼の唇に触れた人差し指を交互に眺めた澄姫は喉の奥でくつくつと笑い始め、ついには耐え切れずけらけらと笑い始めた。

「うふふ、あーっはっはっは!!もう、あれだけで勘違いして気絶するなんて本当に可愛いんだから」

そう言って外したサングラスをかけなおした彼女は、床に転がっていたボーロをぽかりと開けられたままの守一郎の口に放り込むと風邪を引かないように3人の腹に布団をかけてやってから、天井裏に消えた。


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