その男、何度でも

澄姫が校舎内に忍び込んだそのほぼ同時刻。
ふと目を覚ました長次はつきりと痛んだ頭を押さえてゆっくりと体を起こす。
部屋を見回し、自室でないことにこてりと首を傾げる。しかし身じろぎした瞬間に香った甘い匂いに、彼はああ、と頷いた。

「……月妃の…部屋か…」

声に出して呟き、妙に納得する。
月妃、平月妃。
彼女は自分たちと同じ6年生。
そして、自分とは恋仲の関係。
自分と彼女は恋仲なのだから、彼女の部屋で目を覚ましてもなんらおかしいことではない。
異常に強いその思考が、長次の頭を占めていく。
徐々に霞み始めた心に少しも気が付かないまま、彼の瞳が虚空を追いかけ始めた。

『…ょ……き…』

唐突に脳裏に浮かんだ誰かの声。焦点がずれ始めた長次の瞳に、ふと光が戻る。不思議に思って周囲の気配を探るが、物音どころか誰の気配も感じない。
空耳かと耳に触れようとした右手が、かつりと何かを探し当てた。
その拍子にころんと布団から転がり出てきたのは、半円の翡翠色をしたトンボ玉。
よくよく見れば、布団のあちこちに砕けたらしいトンボ玉の破片が落ちている。恋仲の簪でも壊してしまったのだろうかと驚いた長次は一番大きなその欠片を拾い上げ、じっと見つめた。

『…ょう……よ…』

ひび割れの数だけ映る自分の顔を見ていると、また聞こえた誰かの声。まるで魅入られたかのように割れた破片を見つめていると、ちくりと指先に痛みが走った。鋭利な刃物で切られたかのようにぱくりと裂けた指先から、真っ赤な血が浮かぶ。
着物や布団に垂れてはいけないと思ったが、どれだけ動けと願っても、彼の体は頑なに動こうとしない。
とうとうぽつりと雫が着物を打って、長次はゆっくりと俯いた。途端にぼたぼた垂れた雫にしまったと下を見るが、赤い染みなどついていない。
不思議に思った彼は、雨漏りかと思い今度は上を見る。
天井板の木目が、ゆらゆらと不自然に揺れていた。

『ちょ…じ、…きよ』

聞こえる声が鮮明になっていく。
脳裏を占める恋仲であるはずの月妃の顔が、どんどん黒く塗り潰されていく。
張り裂けそうな胸の痛みをやっと自覚した長次は、目を見開いて翡翠の欠片を見た。

『長次、好きよ』

割れ目に日の光が反射して煌き、長次の手がびくりと震えた。
いくつもの輝く面に、見知らぬ女が映し出されていく。
艶やかな黒髪。前髪だけがくるり巻いた独特の癖…それは彼の同室である男が率いる委員会に所属している後輩によく似た面影の、とても美しい女。
薄い桜色の唇が好きだと囁くのを見た瞬間、彼の体にまるで雷に打たれたような衝撃が走った。
井桁を纏った自分を隠れてこっそり見ている、桃色の少女。
青になってすぐ、憧れた先輩の真似をして縄標の練習を始めた自分をこっそり眺めていた少女。
萌黄になった歳の秋、仙蔵経由で少しずつ会話をするようになった少女。
萌黄から紫に、桃色から深赤になった歳、好きだと泣きそうな顔で告げられた。
めきめきと身長が伸び始め、あちこち傷だらけの姿になった自分を、目を見張るほど美しく成長した少女は毎日呆れるくらい好きだと追いかけてきた。
咲き誇る大輪の花のような美しさを湛えた彼女に、万人並の自分などつりあう筈もないからと何度断り続けても、彼女は諦めてはくれなかった。
くのいち教室の授業と疑ったこともあった。
からかわれているだけだと自分に言い聞かせたこともあった。
見目麗しい男が現れればすぐにそちらへ行くんだろうと卑屈になった時もあった。
しかし彼女は毎日毎日毎日、教室や図書室や自室にひょこりと現れては息を呑むほど綺麗に笑ったのだ。

『長次、好きよ』

彼女の美しさならば、男など選びたい放題なのに。
器量もいいから、もっといい家柄の男にだってきっと気に入ってもらえるのに。
なのに彼女は、何度も何度も繰り返すんだ。

『私は長次がいいの』

はにかむ彼女にいつしか魅入って、彼女の笑顔から目が離せなくなって、ふとした時に彼女のことを考えてしまっていて、気付けば彼女に心奪われていた。

記憶の中で黒く塗り潰された月妃の顔に砂嵐が走る。
ゆったりとした癖のある髪は艶やかなまっすぐなものに、優しげな瞳は長い睫の涼しげな瞳に、赤みの強いふっくらとした唇は鮮やかな桜色の薄い唇に。
守れなかった。
傷付けてしまった。
だけどそれでも、大切で愛しくてかけがえのない存在。
何があっても忘れない。
忘れたくない。
忘れられるわけがない。
初めて心の底から愛しいと思った女。


そうだ、彼女の名は−−−…

「……澄姫…ッ…!!!」

声に出してその名を呼べば、途端に世界が輝き始める。
そのあまりの眩しさに、長次の瞳から涙が溢れた。


[ 198/253 ]

[*prev] [next#]