誘惑〜威圧〜


翌日、午前の授業を終えた澄姫が食堂に行くと、気付いた心愛が睨みつけてきた。
憎憎しげな彼女を、澄姫は涼しげな顔で一瞥し、カウンターでおばちゃんからランチを受け取り、彼女から離れた席に座った。

徐々に混み合ってくる食堂で、心愛の傍に居る生徒は、気付けばたった3人になっており、心愛は唇を噛み締める。
そんな彼女を気遣わしげに見やりつつも、昨日の話を聞いて自分の姉が気になっていた滝夜叉丸は、心愛に一言告げると澄姫の元へ向かった。

「姉上、あの、昨日…小耳に挟んだのですが…」

そういつものように話しかけるが、澄姫から滝夜叉丸に返されたのは冷たい視線だけだった。
普段なら有り得ない姉のその態度に、滝夜叉丸はぎくりと身を竦める。

「あ、姉上…?」

「何」

たった一言、返されたその短い言葉に、滝夜叉丸はらしくなく怯える。
今まで自分がどんな粗相をしても、姉は優しく笑って許してくれた。貴方は私と同じで優秀だから、次からはこんなことをしてはだめよと、優しく諭して撫でてくれた。その姉が、今までに見たこともないような冷たい目をしている。
自分は何かとんでもないことをしてしまったのだろうか、そう思っても思い当たることがないので、滝夜叉丸はたじろぐ。
生徒が珍しいものでも見るような目で滝夜叉丸を見ているが、彼はそんな視線を気にする余裕すらなかった。

「あ、姉上?私は、何か、粗相をしてしまいましたか?」

意を決してそう問いかけてみると、ますます冷たい目をした澄姫が不機嫌そうに吐き捨てる。

「そんなこともわからなくなってしまったの?賢い子だと思っていたけど、どうやら私の思い違いだったようね。残念だわ、この愚弟が」

「そ、そんな…」

半泣きで澄姫の装束に手を伸ばした滝夜叉丸だったが、その手は澄姫によって鋭く打たれた。

「さわらないで頂戴」

ぴしゃりと、慕っていた姉にそう言われ、滝夜叉丸の目から涙がポロリと零れた。
食堂に居る生徒が息を呑んでその様子を見ていたが、気にせず澄姫は滝夜叉丸に冷たい言葉を投げた。

「滝、貴方こんな簡単なことが本当にわからないの?そんなことでは忍術学園一優秀なこの澄姫の弟として私が恥ずかしいわ。成績優秀が聞いて呆れるわね、愚か者」

その言葉を聞いて、滝夜叉丸は必死に考える。今なら、今ならまだ間に合う。姉に嫌われたくない一心で、必死に頭を回転させた。
すると、頭の一部にかかっていたもやのようなものが、すうっと晴れる感じがして、一気に“とある感情”が彼の中に溢れてきた。

「あ…私は、どうして…」

あのような怪しい女を、警戒もせずに…
そう呟くと、ぎゅうっと暖かい何かに包まれた。

「さすがね、ちゃんと気付いて偉いわ。それでこそ私の優秀な自慢の弟よ」

先程までとても冷たい目をしていた澄姫が、柔らかく笑って滝夜叉丸を抱き締めた。
その暖かさに、滝夜叉丸の瞳からまた涙が零れ落ちる。
ぼろぼろと子供の頃のように泣き出した滝夜叉丸を抱き締めたまま、澄姫は彼の頬を指でそっと拭ってやり、あやすように頭を撫でた。

「あ、ねうえ…姉上っ…無事に、戻られていたのですね。申し訳ありませんでした、遅くなって…お帰りなさい。お帰り…なさ…」

「ええ、私は無事に戻ってきたのよ?なのに可愛い弟の姿が見えなくてどんなに寂しかったか…ほら、男児がそんなに泣いては恥ずかしいわ」

ひっくひっくと縋る弟を諭すように、目を合わせて澄姫は優しく言う。

「滝、貴方は優秀なのだから、もうこんな情けない間違いを犯してはだめよ?」

コクリと頷いて、またぎゅうとしがみついてきた滝夜叉丸を澄姫は落ち着くまで抱き締めてやろうと、大きくなったその体を膝の上に乗せた。
成り行きを見守っていた生徒の大きな拍手が、食堂に響いた。
その音に顔を上げた滝夜叉丸は、大勢の前で姉に縋り抱きついていたという自らの行いがあまりにも恥ずかしく、顔を真っ赤にして慌てて澄姫から離れた。
そして、何とか取り繕おうと咳払いをひとつし、澄姫に頭を下げた。

「姉上、申し訳ありませんでした。この忍術学園一優秀な滝夜叉丸、まんまと色に惑わされ、とんでもない失態を…もう二度とこのようなことは」

そこまで一気に捲し立てた滝夜叉丸の整った顔に、突然澄姫の拳が無遠慮に叩きつけられた。
すぐ傍に座って彼らを見守りつつ食事をしていた三反田数馬は、そのあまりにも突然の光景にお茶を噴き出し、向かいに居た神崎左門をびちゃびちゃにした。

「気付いたのはそれとして、姉を出迎えなかった罰よ」

「「「容赦ない!!!」」」

心愛を含め、食堂に居た生徒全員が唖然とした中、雷蔵が何かに触発されたように「よーし、僕も…」と呟いて、ゆらりと立ち上がった。
向かう先は、心愛…ではなく、雷蔵と同じ顔をした、鉢屋三郎。
笑顔なのに禍々しい空気を背負って近付いてくる雷蔵に、三郎は金縛りに遭ったように動けなくなる。

「え、あの…雷蔵さん?」

「なあに?」

返事はとても可愛らしいのに、如何せん彼の周りの空気が笑えないほどおどろおどろしい。
あと少し、もう一歩で三郎の目の前、というところで、雷蔵はその歩みを止めた。三郎がホッとしたのも束の間、雷蔵は天使のような笑顔で三郎の腹に拳を叩き込んだ。

「「「えぇぇぇ!!?」」」

再度唖然とする食堂中の生徒をよそに、雷蔵は顔面蒼白で膝をつく三郎に笑顔でこう言った。

「あのね、心愛さんの幻術を解くには強い衝撃を与えるか、より魅力的なもので上書きするのがいいんだって。で、僕悩んだんだけど、結局寝ちゃって思いつかなくって」

でね、と、余りの痛みに悶える三郎に、雷蔵は輝く笑顔を向ける。
対する三郎の顔は引き攣っており、はくはくと口を開閉させるが痛みの余り声が出ない。

「まぁ、三郎だし、正気に戻るまで殴ればいいかなって」

あっけらかんと、可愛く告げられたその死刑宣告に、三郎の顔が真っ青を通り越して真っ白になる。





「さすが雷蔵」

「結論が何とも大雑把だな」

「三郎、ご愁傷様…」

そう呟く勘右衛門、兵助、八左ヱ門。
その言葉をかき消さんばかりの鉢屋三郎の断末魔が食堂に響き渡り、昼休みは過ぎていった。


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