その男、どこまでも不運
いつもは躓いてしまう小石を避けて、縺れる足をひとつ叩いて叱責。
天才と謳われる後輩の掘った落とし穴の印を見落とさないように地面に目を光らせ、それでも前を走る人物を見失わないように大きく跳躍。
学園の正門近くの茂みに飛び込んだ人物に続き、伊作もその茂みに飛び込んだ。
「ぐえっ!!」
まるで蛙が潰れるような悲鳴を上げた人物の着ている渋柿色の装束を見て、伊作はぐっと眉を寄せて唇を噛んだ。
「あわわわわ…事務員は呼ばないで!!あの事務員は呼ばないで…!!」
何かトラウマでもあるのか渋柿色の装束の忍者…いわずもがな、ドクタケ忍者は赤いサングラスの前で必死に手を合わせる。
しかし彼の哀願など耳に入らないとばかりに、伊作は今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪め、茂みの中でしゃがみこんだままその顔を手で覆った。
「…ややこしい色だなぁ、もう…!!」
落胆の滲む呟きにドクタケ忍者はぎゅっと瞑っていた目を開けて、目の前で俯く少年に首を傾げる。そのまま黙りこくってしまった彼にあの、と控えめに声を掛けたお人好しのドクタケ忍者は、彼の口から転がり落ちた聞き覚えのある名にぽかんとした後、盛大に飛び上がった。
「きっ、君っ、澄姫ちゃんのこと知っているのかい!?」
つい驚きのあまり大きな声で叫んでしまったドクタケ忍者は慌てて自分の口を押さえて周囲を見回し、サイドワインダー事務員が駆けつけてこないことに安堵の息を吐いた途端、ぬっと伸びてきた腕に肩をつかまれ勢いよく体を揺すられた。
「いいいい今なんて!?なんでドクタケ忍者が澄姫の名を出すんだ!?」
「はっばばばばば!!」
「笑ってないで答えてよ!!」
澄姫の名が出た途端に目の色を変えた伊作に、ドクタケ忍者はがっくがっく揺すられながらも何とかその手を引き剥がし、数回咳き込むと気を取り直して口を開く。
「あーびっくりしたあーびっくりした…えーっと、君は…見たところ6年生みたいだけど…ひょっとして澄姫ちゃんのお友達?」
「ええ、善法寺伊作と申します。それで、何でドクタケ忍者が学園に?」
「実はかくかくしかじかで、今ドクタケ忍者隊総出で調査をしてるんだけど…あ、申し遅れました、私は風鬼と申します」
「あ、これまたご丁寧に…って、そうじゃなくて!!」
ドクタケ忍者の風鬼から彼らがここにいる理由を聞かされた伊作は、青褪めた顔にそろりと指を這わせ、やっぱり、と小さく呟く。
「…やっぱり、って?」
その呟きを聞いた風鬼が問い掛ければ、伊作はこくりと喉を鳴らし、周囲を警戒するように見回した後、声の音量を落として彼に呟きの意味を説明し始めた。
「…学園がおかしいんです。ううん、学園というより、皆がおかしいんです。僕が異変に気が付いたのは数日前、ふと学園に妙な匂いが漂い始めて、酷い頭痛がし始めて…それは日増しに強くなっていきました。
僕は保健委員会の委員長なので薬が効きにくい体質なんですが、それでも異変は僕にも現れて…まず体の小さい低学年の子達がぼんやりするようになり、それは徐々に上級生にも広がって…つい先日、くのいち教室の子達が虚ろな目で学園を出て行きました」
「なるほど…澄姫ちゃんが見たのってそれか…」
「その少し前に、平月妃と名乗る女が学園に現れたんです。その時僕は丁度落とし穴に落ちてて現場に居合わせなかったんですけど…その直後同級生の様子がおかしくなりました。1人はまだ何とかうっすら自我はあるみたいなんですけど…とにかくそれからまるで隔離されるように外の情報が入らなくなって、先生たちもなんだか様子がおかしいし、僕も自作の気付け薬でなんとか意識を保ってますけどいつまでもつやら…」
そこまで喋って言葉を区切った伊作は悔しそうに地面に爪を立て、ギリリと奥歯を噛み締める。
彼の話を聞いた風鬼はなるほどね、と顎に手を当てて何かを思案するように空を見ると、これは独り言なんだけどさあ、とわざとらしく前置きし、以前調査にやってきた利吉のことをつらつらと話し出す。
「………ということなんだ。父親の様子がおかしいことにかなり焦燥してたけど、今頃はその『月妃』って女のこと調べてると思うんだよねー。あ、そうそう、澄姫ちゃんも恋仲に振られたとかでかなり落ち込んでたんだけど、立ち直ったみたいだったなー。あんないい女を振るなんて馬鹿な男も居たもんだ」
しかし、最後に付け足された一言を聞いて伊作の肩がびくりと跳ねる。先程までのシリアスな表情から一変、全身からじわりと汗を滲ませてぶるぶる震え始めた彼はますます顔面蒼白になりその場に尻餅をついた。
「ヤバイ、ヤバイヤバイどうしよう…万が一にも今の状況を澄姫が知ったら…」
「え、なに、どうしたの」
「いえその澄姫を振った馬鹿な男が月妃の部屋で一晩過ごしたなんてことはないです!!絶対ないです!!」
「え……」
「あ……」
ひゅるりと一陣の風が吹きぬけ、伊作は慌てて口を押さえ、風鬼は呆然。
沈黙が支配したその空間に、暫くして二つの大絶叫が轟いた。
「あああああ!!!今のなしで!!聞かなかったことにしてくださいあああ!!!」
「ばっかやろーもうおもいっきし聞いちゃったよ!!澄姫ちゃんを振った直後に他の女に手を出すなんてなんてうらやま、違う酷い男なんだ!!澄姫ちゃんファンクラブドクタケ支部の奴らが聞いたら怒髪天だぞ!!」
「えっ、もうファンクラブなんてあるんですか!?澄姫が出てってからまだそんなに経ってないっていうか何でドクタケにファンクラブ!?」
「今澄姫ちゃんドクタケ忍術教室で預かってるんですー!!あんな綺麗な女の子がきてファンクラブが発足しないわけがないでしょ!!っつーか澄姫ちゃんを振った挙句あんなに泣かせて自分はさっさと次の女だなんて…もー決めた!!!もう何があっても彼女は返しません!!ウチで責任持って育てます!!!」
「そんな勝手な!!澄姫はうちの子です!!」
「だまらっしゃい!!そもそもこんな飢えた狼がうようよいる中にあんな可愛い女の子を1人で放り込むだなんて危険極まりない!!お父さん許しませんからね!!」
ひとしきり怒鳴った風鬼は最後にドンと地面を踏みつけ、そのまま正門を飛び出した。ヘボのドクタケ忍者とは思えないスピードで走り去った彼に手を伸ばしたまま固まっていた伊作はその場にがくりと膝をつき、事態が余計ややこしくなってしまったことをただ静かに嘆くしか出来なかった。
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