その男、思い出す

まだ夜明け前の暗い室内で、小平太はぱちりと目を覚ました。
音を立てないように布団をどけて、衝立からそっと顔を出す。
普段は静かに眠る同室の男が漏らした小さな呻き声に、余程体調が悪いのかと心配になり眉を寄せるが、呻き声の合間に聞こえたそれに、ぱちぱちと目を瞬かせた。
布団をきつく握り締める手に握られているものに目を見開いた小平太は、次の瞬間にんまりと笑ってころりと布団に横になる。
長次もお年頃か、と口の中で呟いた彼はくふくふと小さく笑って、ゆっくりと目を閉じた。

彼ががあがあといびきをかき始めた頃、今度は長次がムクリと体を起こす。衝立からそっと顔を覗かせて同室の男がよく眠っていることを確認した彼は、昨晩よく乾かさないうちに眠ってしまったため少し乱れた髪を手ぐしで軽く整えると、寝巻きの上に半纏を羽織って静かに廊下に出た。
まだ真っ暗な空を見上げて、ふうと息を吐く。白くなって宙に消えた溜息をじっと見つめた彼は、寝ている間も決して手放さなかった翡翠色の簪をじっと見つめ、口を開いた。

「……−−『澄姫』……」

小さく呟かれたその名は、溜息と同じように白くなって冷たい風に浚われた。かつりと冷えた廊下に簪が落ち、長次は震える手で自身の顔を覆う。
彼の脳裏を占めるのは、先程まで見ていたまどろみの記憶。
スライドショーのように切り替わっていく、美しい侵入者との甘い甘い夢。
まるで走馬灯のようにゆっくりと流れるそれは眠る前に眺めていた翡翠と同じ色に煌いており、長次の胸を焼いた。
まだ幼い姿の彼を遠くから眺めていた桃色の少女。
仲良くなった萌黄色の秋。
初めて思いを告げられた紫色の春。
避け続けた群青の冬。
そして、将来を誓った深緑の夏。
ところどころワタアメのようなものが覆い隠すその記憶は紛れもなく真実で、冷たい雨の中、止めてくれと呟きながらも動けない長次の前で冷たい眼差しの長次が茫然自失の深赤の綺麗な顔に傷をつけたところで、その夢は終わった。
絶対に泣かせたくなかった。
絶対に傷付けたくなかった。
しかし一番強くそう思っていたはずの自分が、結果彼女を泣かせ傷付けた。

廊下に転がる簪を静かに拾い上げ、ざわりと項の毛を逆立たせた長次は冷たい廊下をぎしりと鳴らす。
ぎしり、ぎしりと一歩一歩ゆっくり進み、彼の記憶では空き部屋だったはずの扉の前に立ち、掛かっている名札を一瞥し、扉にゆっくりと手を掛けた。
音もなく開いた扉の奥に歩を進め、ゆっくり上下している布団の前に立つと、長次は握っていた簪を大きく振りかぶり、どずんと突き刺した。

「夜這いにしては随分過激ね、長次?」

「……ッ!!!」

しかし部屋に響いたのは悲鳴ではなく、嘲笑を含んだ女の余裕たっぷりな声。ふんわりとした髪を耳にかけながら長次の背後を取った彼女は白い手を彼の顔の前にサッと突き出し、小さな桃色のコンパクトをパカリと開いた。
何の変哲もない化粧道具。
しかし絶対に室町に存在しないそれからふわりと上がった甘い香りが、長次に纏わりつく。

「…ッお前は…一体何者だ…!!」

「やあだ、平月妃って言ったじゃない。同級生の顔も忘れちゃったの?」

くすくすくす、と耳元で不快に響く笑い声と、思考を奪っていく甘い香り。激しい痛みを訴える頭を押さえながら、長次は鋭く彼女を睨み付けた。

「…違う、ッ…お前は…違う…ッ」

「うふっ、なあに?もう思い出しちゃったの?すごぉい、愛の力ってやつ?でも残念」

しかしがくりと膝から力が抜け、強い眠気が彼を襲う。最後の足掻きとばかりに簪を振りかぶった長次だが、その手は彼女に届くことなく、大きな体はどさりと床に倒れた。
白く霞んだ視界はもう何も捉えられず、今にも途切れそうな意識の端で辛うじて楽しそうに囁いた女の声を聞いた長次は、悔しそうに唇を噛み、掠れた声で一度だけ、澄姫の名を呼んだ。

「“また”忘れちゃうのよ、長次」

ぱちりと静かにコンパクトを閉じて、月妃は嬉しそうに微笑んだ。


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