その男、体調不良?

一日中降り続いた酷い雨がようやく止んだ、星の見える夜。
長次は揃って向かった風呂から一足早く自室に戻り、就寝の準備を進めていた。
部屋の真ん中に衝立を立てて同室の小平太の布団もついでに敷いてやり、自分の布団に腰を下ろしてふうと息を吐く。
今日はなんだか調子が悪い。
もう今日何度目かもわからなくなったその言葉をもう一度心の中で繰り返して、彼は無言のまま、まだ微かに水分を含んでいる前髪をくしゃりとかき上げた。
原因不明の体調不良にもう一度息を吐いて、半ば八つ当たりのように深緑の装束を乱暴に放り投げると、床に落ちたそれからかつりと小さな音がして、長次はぱちくりと瞬きをひとつ。

「……すっかり、忘れていた…」

小さく呟いて装束を手繰り寄せ、懐に手を突っ込んで音の元を取り出した彼は、それを灯りの前に翳してじいっと見つめる。
朝、学園の正門前で対峙した侵入者が落としていった簪。
早々に友人たちに相談しようと思っていたのだが、どうしてかそのことをすっかり忘れていた長次は侵入者の報告をしなければいけないと思えば思うほど、何故か頑なに口を噤んでしまった。
まるであの侵入者を、庇うかのように。

「……深い、赤色…」

ぼんやりと、脳裏に朝の侵入者の姿が浮かぶ。
対峙した時はドクタケかとも思ったあの装束の色に何故か見覚えがあると思った長次は、大きな掌で目元を覆ってよくよく思い出してみる。
とても自然な様子で嬉しそうに長次に駆け寄った侵入者はとても綺麗な顔立ちをしており、時折細い眉を顰めながら、教えた覚えなどない彼の名を口にして、そして、武器を向けた瞬間信じられないとでも言いたそうな顔で、打ちひしがれた。
とてもじゃないがプロ忍者にあるまじきその姿に、今更ながら違和感を感じる。
もしかして一度会ったことがあっただろうかと記憶の引き出しを探った彼はしかしプロのくのいちはオシロイシメジのおばちゃん忍者かチャミダレアミタケのくのいち三人組しか思い当たらず、そのいずれもあれほど美しい女ではなかったと目元を覆った掌の隙間から揺れる灯りを見た。
小さな灯りに照らされた質素な簪の翡翠色が煌き、長次の瞳が見開かれる。

「…恋仲…私の、恋仲…?」

それと同時に蘇った、泣きそうな顔で女が発した言葉。

『くのいち−−−−−の、貴方の恋仲の平−−よ!!』

途端にばくばくとうるさくなった鼓動に連動するように、彼の手が震えた。みしりと音を立てた簪がまるで何かを訴えるようにキラキラと輝き、長次の心をかき乱す。
脳裏に響く、とろりと甘い女の声。
とても嬉しそうな笑顔が、とても幸せそうな声が、彼の心に広がっていく。よく知っているはずなのに、全く知らないその女の声が、耳元で聞こえた気がした。

『−−−好きよ、長次…好きよ−−−』

『−−−……私もだ、−−−』

女の声に応える様に、自分の声が続く。翡翠の中に一瞬だけ見えた、朝の侵入者を優しく抱き締める見覚えのある…いや、毎日見ている男の姿に、ひくりと長次の喉が引き攣った。
その瞬間、かたりと小さく音を立てた部屋の扉を勢いよく振り返った長次は、喉にせり上がってきた名を叫ぼうと口を開く。

「お、布団敷いといてくれたのか!!ありがとな!!」

しかしそれは音にならず、大きく膨れた感情で張り裂けそうになっていた胸は風呂から戻ってきた小平太の姿を認識すると音もなく萎み、長次の腕は力なく床に落ちた。

「長次?……っおい、長次!!どうした!!一体何があった!!」

がっくりと項垂れてしまった彼を見て、小平太が目の色を変えて駆け寄る。驚愕に見開かれた彼の目に映る長次は、いつもの無表情ではなく何故か泣きそうに顔を歪めていた。

どうして、寝巻き姿のあの女が部屋を訪れると思った?
何故こんなにも胸が痛い?

ぐるぐる巡る疑問に痛む頭、熱いものが詰まったように苦しい喉…それらをぐっと押さえ込んだ長次はなんでもないと小平太に告げ、なんだか調子が悪いと言って布団に潜り込んだ。
その態度から拒絶を感じ取った小平太は少しだけ悲しそうな顔で彼を見つめ、何かあったらすぐ声を掛けてくれとだけ言い残すと、部屋の灯りを消して珍しく早い時間に床についた。



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